日本とヨーロッパを結ぶ国際線の窓から
金田真聡のドイツ・ベルリン建築通信 no.04
桜の咲く頃に

 

ベルリンに来てからちょうど一年、海外就職を決意した頃から数えると二年が経った。これまで の過程で確信したことは、日本人として当たり前にやってきたことを自然に発揮することが、異 なる環境や違った価値観の中では高く評価され得るということだった。

ベルリンの桜

ベルリンも4月に入り少し寒さが和 らいできた。今年は真冬に強烈な 寒波は来なかったものの、随分と 冬が長引いた。4月の1週目、イー スター休みに激しく雪が降ったの は、観測史上初めてのことだとい う。この原稿を書いている4月初旬 の時点でも、公園や道路の脇には 少し雪も残っていて、頬をかすめ る風はまだ冷たい。日本ではもう 20度を超える日もあり、桜が満開 だというメールが友人から届いた。 桜はドイツ語でキルシュ(Kirsch)と いい、ベルリンにも所々にある。

私は昨年、桜が咲く直前に渡独し、 ベルリンで初めての春を迎えた。 知り合いの伝手もほとんどなくベ ルリンに移り住んだ私には、友人 と呼べる人もまだおらずドイツに 桜があることも知らなかった。4月 の1ヶ月間はドイツ語学校に通って いたのだが、大学院を卒業後5年も 経つ私は、休暇を利用してドイツ にやってきた各国の若い学生たち と馴染むことができずにいた。そ して1ヶ月後に設計事務所での勤務 スタートを控え、ドイツ語がなか なか上達しない焦りと、少しだけ 寂しい思いを感じ始めていた頃、偶然帰り道の公園で桜を見つけた。 今年は桜は見られないと思い込ん でいた私は、満開の桜に驚き、胸 が熱くなってしばらくそこに立ち 尽くしていた。その桜は、随分と 遠くまで来てしまったという思い と、期待というにはあまりにも不 確定な未来に、不安な気持ちを抱 えていた私を勇気付けてくれた。

ベルリンで初めて見た桜

面接に至るまで

そして今どうにかベルリンで建築 士として働くことができているが、 この過程を振り返ってみると、海 外で実際に建築の設計業務を行う ことよりも、その機会を見つける
ことの方が遥かに難しかったと思 う。結果から言うと、建築計画を 図面という共通言語で表現すると いう特性から、英語やドイツ語が あまりできなくとも、思いの他、 仕事には困らなかった。また建築 設計における細かな制度の違いや 材料、工法の違いはいくらでもあ るものの、建築の基本的な考え方 に大きな違いはなかった。

一方で、外国人が海外で英語や現 地語で劣る中で仕事の機会を得る ことがとても難しい。そのために は、何か作戦を立てないとどうし ても現地の人を雇う優位性には負 けてしまう。特に私のように応募 時に海外にいるわけでもなく、日 本から履歴書やポートフォリオ(作 品集)を送って面接に辿りつくとい うやり方は本当に難しい。私も10 通送っても、20通送ってもほとん ど返事すら無く、丁寧な文章で断 りのメールがくれば良い方だった。 考えてみれば、日本の会社にいき なりドイツから日本語がほとんど できない人が応募してきたとして、 では面接しましょう、という会社 が果たしてどれくらいあるだろう か。私が採用担当なら、同じ職能 とはいえ、言葉や文化が違う中で 上手くやっていけるのだろうか、すぐ辞めないだろうか、そもそも 面接の為にわざわざドイツから来 るのか、等々のリスクを考えて、 いくらでもいるであろう現地の応 募者を採用しようと思うだろう。 そこで私が取った作戦は、ドイツ の会社を通して応募するというも のだった。私がインターネットを 通して見つけたその会社は、ドイ ツの人をインターンシップのため に海外に送り出すという業務をやっ ていたのだが、思い切って尋ねて みたところ、やる事は同じだから 海外の人をドイツ企業に紹介する こともできると言ってくれた。私 は、突然日本から履歴書を送って くるより、ドイツの会社を通して 送られて来たものの方が信用には 繋がりやすいはずだと考えた。そ して何ヶ月もかけて作り込んだポー トフォリオと、現地担当者の粘り 強い交渉のおかげでその作戦は功 を奏し、現在勤務する会社の面接 機会を得る事ができた。

しかし、面接をしてくれるという もののなかなか日程が決まらない。 さらにはテレビ電話で面接を行う という話も来たが、それはまずい。 英語もまだ拙い中で、テレビ電話 となれば雰囲気も伝えられない上、 プレゼンテーションも見づらく、 言葉の比重が大きくなってしまう。 そこで、ベルリンに行って面接を してもらいたいのだと何度も頼ん だ。直接会って面接が出来れば、 もし上手く話せない部分があった としてもポートフォリオのビジュ アルや図面を使って伝えることが できる。しかしクリスマス休暇を 挟んだせいもあって、二ヶ月経っ ても日程が決まらない。しびれを 切らした私がいても立ってもいら れず、有休をかき集め航空券を購 入し、この週にベルリンに行くか らどこかで時間を作って面接して 欲しいというメールを送ったとこ ろ、ようやく面接日が決まった。 海外でチャンスを得るには、いつ かそういう機会が来ればいいなと 待っているのではなく、もう後戻りできない状態まで突っ込む行動 力が必要だということがわかった。

ベルリンでの面接

海外就職を決意した10ヶ月後に私 はベルリンで面接を受けることに なった。3ヶ月かけて練り上げたプ レゼンテーションや想定問答を口 から自然に出るまで暗記し、向かっ たのはPlajer & Franz Studioという 事務所だった。名前の通りアレッ クス・プライェルという建築家と、 ヴェルナー・フランツというイン テリアデザイナーの共同経営の設 計事務所だ。蛇足ながら、この面 接の練習で英語話すということが 習慣になり、表現力も向上した。 目的が明確であれば進歩も早い。 事務所に着き、受付で面接に来た ことを告げると、事務所の一番奥 のカンファレンスルームに通され た。面接に対応してくれたのはヴェ ルナーと秘書のマリカだった。ヴェ ルナーはスラリとした長身に小さ な顔、そして迫力のある低い声が 印象的だ。そしてセンスの良いイ エローのニット姿で現れた。挨拶 の後、私は大判のポートフォリオ をめくりながらゆっくりとプレゼ ンテーションをした。特に念入り に説明したのは、何故ドイツに来 たいのかという点と、日本人の私が働くことが、事務所にとってど のようなメリットがあるかという 点についてだ。彼は私の用意した 写真や説明に興味を持ち、それに 対する彼の意見を聞かせてくれた。 そして「私のガールフレンドが昨 年東京に行ったんだ。彼女は、大 変興味深い街だったけれど、少し 忙しく私達には窮屈な街だったと 言っていたよ。君の写真はまさに それを示しているね。」と言った。 私は外国人デザイナーというのは 面接で自分のガールフレンドの話 をするのかと大変驚いた。そして 最後に彼は「今事務所はスタッフ が増え手狭になっているから、最 初は可動式の机を出して仕事をし てもらい、寝る時はそれを片付け て布団を敷いて寝てもらうことに なるかもしれない。ほら昔ながら の日本のやり方で。」と冗談で締 めてくれた。私が製本してきたポー トフォリオを彼に手渡すと、「こ れだけ丁寧に作るのには大変な時 間がかかったことだろう。それに、 表紙に使っている和紙がとても綺 麗だね。」と言ってくれた。少し 前まで全く英語が話せなかった私 には、あっという間にこの面接は 終わってしまったが、2月のこの 日、極寒のベルリンの-18度という 気温だけは忘れられない。

面接のために準備した東京とベルリンの比較 : ポートフォリオ

プラクティクム

その面接をクリアした私が最初に 得られたチャンスは、半年契約の プラクティクム(Praktikum)という ものだった。プラクティクムとは ドイツのインターンシップ制度の 事で、ドイツの学生などは在学中 や卒業後に3ヶ月~10ヶ月程度、 いくつかの企業や事務所で働き経 験を積む。マイスター制度のある ドイツならではなのか、教えても らうというより、学生時代に学ん できたことを実社会で発揮するた めの実践の場という印象が強い。 余談だが、私は同僚達との会話の 中で出身大学の名前を一切聞いた 事がない。ドイツではそれまでの 学校の成績で進学する大学の候補 が決まるため、大学入試を目的と した勉強も無ければ、偏差値によ る大学のランク付け等も存在しな い。皆やりたい事が学べる街の大 学に行くので、ハンブルグでデザ インを勉強したとか、アーヘンで 建築を学んだという表現をする。 ドイツでは「どこの学校で学んだ か」ではなく「何を学んだか」と いう、経験が重視される社会だと 感じている。私は大学院を卒業し た後、5年間建築設計者として働 き、一級建築士の資格も取得した。 その上で、卒業したての人たちに 混じってプラクティクムから始め るというのは難しい選択であった。 プラクティクムの間は給与も日本 で働いていた時の数分の一になり、 経済的にも厳しい。しかし経験重 視の社会、きっちりと成果を出せ ば、半年後には正式にスタッフに なれるはずだと信じてプラクティ クムからスタートすることにした。

勤務初日は、面接にも同席してい た秘書のマリカが「ドイツ語はバッ チリやって来たわね」と言って、 出勤簿の書き方からキッチンにあ るコーヒーマシンの使い方まで、 ドイツ語でみっちり3時間説明して くれた。正直に言うと1割もわから ず、すぐにクビになるのではない かと背筋が凍った。5月のこの日外はもう春めいていたが、2月の肌を 突き刺すような寒さが思わず蘇っ た。2日目、初めての仕事は建材の サンプルがギッシリと詰め込まれ たマテリアルルームの掃除だった。 ドイツで働くというとなんだかと ても聞こえはいいが、励まして送 り出してくれた先輩や後輩、同僚 たちに、ドイツに来てマテリアル ルームの掃除をしているなんて恥 ずかしくて言えない。まして日本 で5年間働いた上に、一級建築士の 資格も持っているのに。何よりも、 半年間設計者らしい仕事をしない まま契約を打ち切らられたらどう しようかという不安で、気持ちが 暗くなった。しかし、ゼロからの スタートだからどんな小さな仕事 もきっちりやろうと思い顔を上げ た私に、マテリアルを収納してい る棚に貼ってあるタグが目に入っ てきた。Holz(木)、Stahl(鋼)、 Spiegel(鏡)。日本で普段使ってい た材料の名前もまだほとんど知ら なかった私には、ここはとても勉 強になる。掃除とはいえ、自分の 考え方次第で吸収できるものはた くさんあるということに気づいた。

その後、得意の模型制作の仕事で はここがアピールできるチャンス と思いさらに張り切ったが、道具 や材料が日本と同じものが手に入 らず苦労した。日本で愛用してい たカッターの刃が無くなった時は、 ちょうどドイツに遊びに来た両親 に持って来てもらった。同僚達も 日本製のカッター刃の切れ味に「日 本刀みたいだ!」などと言って驚 いていた。毎日毎日遅くまで作り 込み、さらに皆に止められながら も、休日返上で模型を作り上げた。 言葉によるアピールは難しいけれ ど、責任感や良いものを作りたい というモチベーションは、仕事に 向かう姿勢を通して必ず伝わるは ずだと信じていた。そして実施設 計がスタートし、ディテール図の 担当になりスケッチや図面を描き まくっていると、あっという間に プラクティクムの半年間は過ぎた。

幸い事務所のメインのCADが学生 時代から慣れ親しんだものだったので、ドイツ語のツール名はほと んどわからなかったが、どこに何 があるかは体が覚えていて図面を 描くことができた。日本人が一人 もいない環境で、さらに日常会話 はほぼ全てドイツ語で行われる中、 自分の存在価値は建築設計という 仕事を通じて証明する以外にはな い。今日全力を出し一歩ずつでも 成長しなければ、明日は無いかも しれないと毎日崖っぷちの気持ち だった。 仕事がなくなるとビザも 切れ、ドイツに滞在することすら できなくなる。そんな不安な毎日 の中、もう一つ救われたのは事務 所のメンバーが皆とても親切にし てくれたことだった。ドイツでは 親しい間柄では挨拶の時に名前も 付けて呼ぶのが習慣なのだそうだ が、「Morgen, Masato! (おはよ う、マサト!)」と毎朝名前を呼ん でくれることで、皆が受け入れて くれているのだと実感できて嬉し かった。小さな事でも一つ一つに 発見や感謝の気持ちを持つことが でき、貴重な経験となった。

同じ日にプラクティクムをスタートし たスペイン人の同僚ホセと

日本人として

そしてそろそろ半年になろうかと いう頃、もう一人の経営者で建築 家のアレックスが、面談の機会を 用意してくれた。欧米人は前置き などなく単刀直入に話すとよく言 われるが、その日は15分も前置き があったのでどうなる事かと内心 冷や冷やした。しかしその後、 「チームは君を必要としている。アーキテクトとして新しい契約の 話をしよう」と言ってくれた。日 本では経験したことのなかった、 給与の交渉もした。アレックスが 面談で私に言ってくれたことは、 「日本人の仕事に対する真摯な態 度や、どんな仕事でも不平不満を 言わず責任をきっちり果たそうと する姿勢は本当に素晴らしい。そ れはドイツを始め西洋人にはなか なか難しいことなんだ。建築のプ ロジェクトには、いつも問題やハー ドワークがつきものだけれど、そ いう時こそ日本人のメンタリティ でチームを支えてあげて欲しい。」 ということだった。これまでやっ てきたことが報われた安堵と共に、 思いもしなかったアレックスの言 葉に思わず涙が出そうになった。 私は日本では特別に優秀というわ けでもなかったし、社会人になっ て5年目にして漠然とした伸び悩み を感じていた。今思えば、働ける 環境がある事や毎月給与が入って 来る事を当たり前のように感じて しまっていたのかもしれない。

近年、日本企業のグローバル化へ の対応の遅れなどが盛んに叫ばれ ているが、自信を持って言える。 日本で皆が普通に働いている仕事 の質は、世界ではとても素晴らし いと評価されるレベルなんだと。 さらに、建設サイクルの早い日本 では、若い頃から責任のある立場 で数多くのプロジェクトに携わり、 担当物件を抱えたくさんの経験を 積むことができる。それは、一つ のプロジェクトに長い時間のかか るヨーロッパでは、非常に難しい ことであり、世界に誇れるキャリ アになり得る。そのことは、日本 を出て初めて気づくことができた。 私は、桜の花が日本独特のもので あると錯覚していたように、日本 で働くことと海外で働くことは随 分違うような気がしていた。そし て海外で働くには、足りないもの が沢山あると思っていた。しかし、 ベルリンでも桜は咲くのだ。日本 人らしく丁寧に、誠実に仕事をすることが、ここではとても価値の あることだと確信した。

私のように長期間の海外経験も特 になかった者でも、きっかけさえ 掴めれば案外どこでもやれるんだ ということがわかったのだから、 今後海外に挑戦したいと思ってい る人にも、また日本でもっと頑張 ろうと思っている人にも希望を持 てる事を発信したい。そのために、 明日もまた日本人丸出しで頑張り たいと思う。

そして、一年前に見つけたベルリ ンのあの公園の桜はまだ開花すら していないが、自然ともう桜をテー マにした曲を口ずさんでしまう私 の身体には、いつもどこにいても 日本の季節がしっかりと刻まれて いるのだと感じている。

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