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1978年2月雪の降る日、入試のために法政大学の前でバスから降り立った日が、私の建築人生の始まりであった。
東京都心の中高一貫の女子校から学年ただ一人の工学部志望は誰からも賛成されなかったが、ただ一人父だけは賛成してくれた。父は大学卒業後、戦地に送り込まれ、特攻隊として昭和20年8月13日出撃の命令を受けていたが、出撃の旗が上がることは無く生還した人だ。一度は死を覚悟し、20代を戦中戦後に翻弄された父は、娘の未来をどう描いていたのか、もう問うすべもない。
ただ、父は六大学である法政大学入学をことのほか喜んでくれた。
そうして、ガイダンスが始まり、「建築は見ることも大切な勉強です。街に出なさい」とおっしゃった先生がいらした。
それからの4年間は心の向くまま旅にでた。3年から4年の春休みにはバックパックでヨーロッパを1か月ほど一人で旅した。卒業設計はオペラハウス、卒論は劇場史。その糧を得るための旅行と言って、また父に頼み込むと「ああ」と言って送り出してくれた。その1か月は今も私の心の中の宝石箱のように、たまに引き出しては前に進むエネルギーとなっている。
しかし、1982年就職となると大きな壁にぶつかる。その後施行される「男女雇用機会均等法」はまだ無く、求人票には「女子不可」の文字ばかりであった。それでも、なんとか住宅メーカーの就職を決めるが、男社会の建築界は歩きにくい世界であった。
その後、縁あって1983年に結婚、1990年に出産、当時法政大学で「応用力学」教えていらした藤澤秀雄先生の構造事務所に所属し、出産後には復帰する約束も大きな力となり、息子を保育園に預け、また建築界を歩き始めることになる。が、出産後間もなく先生がお亡くなりになってしまう。それでも、残った所員で継続しようと努力するのだが、先生が亡くなられてから5年後阪神大震災の年に事務所は立ち行かなくなってしまう。その時藤澤先生のご出身だった「織本匠構造設計研究所」にいらした大学の先輩のご尽力でなんとか織本に移動させていただくことが決まったのである。それから60才定年まで、意匠出身の人間が子育てをしながら構造設計に携わるのは並大抵ではなかったが、丹下・黒川・芦原先生等の作品に関わることもあり、本当に建築を続けて良かったと思えることが多かった。また、女性の所員が多いことにも助けられたかもしれない。
そうして、60才。息子も大学院卒業後、設計の仕事に携わり、あろうことか私の長年の夢であった
劇場の設計にも関わり、ようやく子育ても卒業できたと思った矢先に母が介護を必要とし、勤務継続の打診もされたが思い切って個人事業主として仕事を継続する決心をする。定年退職した年は織本での残務もあり、多くの方々にご尽力いただき、なんとかやっていけそうなめどがついた2020年2月にコロナが発生。ほとんどの仕事がストップしてしまう。そこから2年ほどは細々と仕事を続けていたのだが、2022年またもや大学の先輩のご紹介で多くの仕事を受注させていただくことになり、今に至っている。
振り返ると、人生の節目には大学のつながりがとても幸運ももたらしてくれることがわかる。
父だけが賛成してくれた私の建築人生がここまで続けてこられたことに、多くの方々へ感謝し、もう少しこの建築の世界に身を置きたいと思う。
写真は最新の「大阪万博」と今では行くことが困難なイスラエルとヨルダンです。
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