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櫓の上の展望温泉にひとり浸かり、由布岳を眺める。眼前には巨大なガスセパレーターが、轟轟と湯けむりを噴き出している。柱間に縁取られた空は徐々にその色を赤へと転じ、境界の曖昧な三日月が、梢の間に揺れている。梅雨明けの、なまぬるい夜が近づいている。 ふと僕の正面に、軒裏からすすすと一匹の蜘蛛が降りてきた。湯船の縁に着地するとすぐ上昇し、再び真っ直ぐ降りてくる。素早く2往復ほどしたのち、今度は一見規則性のない動きを中空ではじめた。しばらくすると、天井、柱、床を支点とする複数の大きな三角形が作りだされていることに気づく。そのある一点に、糸が玉止めのように集中して重ねられている。蜘蛛は次にこの点を中心として、放射状に糸を張りだした。見慣れた蜘蛛の巣のかたちが、夕焼けと月を後景に追いやりながら、立ち上がっていく。 放射状の縦糸が一巡すると、蜘蛛は先の中心を始点として、外周へ向け螺旋状に横糸を架け渡しはじめた。横糸同士の間隔はだいたい30mmほど、巧みに均等に紡がれている。一体何を根拠に間隔を決めているのか。よく動きを見ていると、蜘蛛が左右前方の両足を目いっぱい広げ、ちょうど足先が引っかかるぎりぎりの位置を見定めたうえで、腹の糸疣から糸を出していることに気がついた。蜘蛛の巣は、蜘蛛の身体寸法に基づいてできている。古代はウィトルウィウスを経てルネサンスのダ・ヴィンチ、果てには近代のル・コルビュジエへと連なる構築体系の基底をなす身体寸法は、なにも人間さまの専売特許ではないのだ。よくよく考えれば当たり前の些細な気づきに、この蜘蛛への妙な共感を覚えた。完成を見届けたい。そう思った。 外周へ向かう螺旋の直径がおおよそ500mmに達した頃合いで、蜘蛛は動きを転じ、再び中心へ向けて螺旋を描きだした。先の横糸の間を埋めるように、今度は両足ではなく片足で測りながら、最初は5mm間隔、中心付近では2mm間隔とその密度を増しつつ、最後の仕上げを進めていく。巣作りを始めてからおよそ40分、蜘蛛は中心に戻ると直下を向いて、何事もなかったかのように静止した。休むことなく正確に、そして丁寧に巣を作り続けた蜘蛛の胸中には何が去来していたのだろう。ものづくりに没頭することの苦しみと恍惚とを、この蜘蛛もまた、人間と同じように感じていただろうか。蜘蛛はすでに、獲物の到来を知らせる振動に全神経を集中させているようだった。 湯船から上がって縁に座り、風に涼みつつ完成した蜘蛛の巣をぼんやり眺めていると、10代半ばくらいの少年が、虚ろな視線で何か独り言をつぶやきながら、こちらへおもむろに近づいてくる。少年は湯船を挟んで僕の正面に立つと、蜘蛛の巣と床を結ぶ糸が架かるその縁に、腰を掛けた。彼の頭が糸に触れ、瞬間上部の巣が大きく揺れた。異変を察知した蜘蛛は急降下し、少年の前髪に着地した。彼はそのまま湯船へ入ると、蜘蛛は振り落とされて水面に浮かんだ。蜘蛛の存在にそこで初めて気づいた彼は、藻掻く蜘蛛を追い立てるように、その手で湯船を波立てた。僕はその様子をじっと見ていた。蜘蛛への関心が高まるにつれて彼の手つきは激しさを増し、波は強く、乱れていく。蜘蛛は全身をうねりながら流されて、あげく僕が座る縁へと打ち上げられた。蜘蛛を見失い、湯船を見回している少年を見つめながら、僕はそっと足を動かし体勢を変え、蜘蛛を彼の視界から遮った。
足元を覗くと、蜘蛛にはまだ、息が残っていた。蜘蛛の傍らに左手を添えると、蜘蛛は首尾よく手の甲へ這い上がってきた。僕はその場をゆっくり立ち上がり、少年を残して櫓を降りた。露天風呂の庭を囲う塀の笠木に左手を伸ばすと、やがて蜘蛛はそちらへ体を移し、塀の向こう側へと姿を消した。君の巣は、僕が壊したかった。左手の小指に、いつからか虫刺されの跡が残されていることに気づいた。微かに痒みが増してくるのを感じた。三日月の輪郭が、夜空で明確になっていた。 |
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