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友人からのあんず便りが届いた。「…あんずよ燃えよ」と高校時代に読んだ室生犀星の詩を思い出しながら、これはと長野へ向かい、あんずの花にしっかと巡り会えた。あんずの花を見るのも初めてながら、その花咲く時の短い事も心をそそった。 山里の緩やかな斜面にかすみたなびく様に淡いピンクが流れ、近くに寄れば小枝一杯にこれでもかと花が押合いへしあいし、その小枝が上へ上へと伸びてまるでブラシのごとく。つぼみの時は色濃く、次第に淡い色へと変わると聞いた。果樹畑にあんずを植えるはもちろん、農家の庭先にも植わり、それこそ流れる花の中に家並みがある風景、あんずを栽培する生活からの美しさだろうか。かすみのように色々な想いが浮き上り、そしてうっすらと消えて行く。 松代へ向かい、ここは格式高い城下町、城跡や武家屋敷が残る町に、細やかに街を歩きたくなる設えのある気持ちのいい街であった。鋪道に埋込まれたピンコロ石や武家屋敷に沿う水路脇の歩道は心地よく、とは言え、かつて松代群発地震が起きた地。そして知ったのは、溯る164年前の弘化4年(1847)に善光寺地震と呼ばれた大地震が起きていた事。マグニチュード7.4との推定とか、平穏な山里ではなかった。3.11大地震の時にも長野県の北の方で誘発されての地震が起きている。 月が変わり、その地震被災地へ建物調査の機会を得た。出掛ける前の気になる事がありながらも、南三陸町のはるか手前から津波の漂流物が川沿いに散乱する様を見るや、あらゆる思いは消えてしまった。何もかもが一面の瓦礫と化した散乱。何もない。青空の下に、異次元の世界に迷い込んだか、悪夢を見たかの一瞬も感じ、手足をもぎ取られたようなぎくしゃくな感覚も覚えた。堂々と海ぎわに建つ「津波避難建物」と壁に書かれたRCの共同住宅は、建物こそそのままが内装、家財は見事に津波に剥ぎ取られたスケルトン状態、たまたま居合わせた住民は津波以来初めて来たと、家の中には牡蠣が一杯で牡蠣の養殖場みたいだよ、食べられないけど、と意外にも明るく、意表を突かれた。 こんな時、我々はどんな手立てを持っているのだろうか、建築家として何ができるのだろうか。途方に暮れる訳にはいかないし、かくも巨大な自然の脅威に立ち向う事ができるのだろうか、そもそも脅威があったとしても、向き合って海と共に生きねばならぬはず。危険があってもそこに住む。今まで営々と住んで来た土地である。何もかも奪われても、また最初から一つ一つ積み上げてつくるのだろうか。きめ細かに街をつくる意思が根こそぎさらわれてもつくるのだろうか。次の世代に伝えるために。
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