佐藤修さんが6月16日亡くなられました。突然の訃報に驚くとともに、建築学科の助手を勤めておられた時、大江宏先生、河原一郎先生、小能林、倉田両先生などとともに過ごさせていただいた大学院での様々な時間が思い起こされたのでした。一昨年市ヶ谷での河原先生を偲ぶ会で、久々に、髭を落とし、颯爽とお元気な姿の佐藤さんにお会いしたばかりと思っていました。
佐藤さんを知ることになったのは麻布校舎の製図室でのことでした。入学したばかりの私が上の学年の即日設計の授業を覗いたとき、一番後の席でひときわ美しく階段の詳細図を描いていたのが佐藤さんでした。いつも黒のスーツを身につけ、近寄り難い風貌を漂わせていました。キャンパスが東小金井に移って間もなく、大江先生のゼミで佐藤さんの卒論を見せられ、そこに著された内容は私には到底理解できそうにない哲学的で、難解なものだったと記憶しています。卒業後は助手として大学に残り、私は開設(1965年)間もない大学院生として、同期の小川洋司や佐保肇等とともに佐藤さんとの交流が始まったのでした。新宿や六本木のディスコに連れ出され、朝まで轟音のなかで大声を出してはまどろみ、吉祥寺や花園神社近くの飲み屋では静かに濃密な時間を過ごしたものです。しかし、そうしたなか佐藤さんはいつの間にかペルシャ語を習得し、本郷の「東洋文庫」にも通いはじめ、ペルシャ建築やイスラムの歴史資料を机上に、大江先生の影のごとく「近代の建築の源流」を探る新たな準備を始め、1969年イランに旅立ったのでした。
5年ほどのイラン滞在の間、テヘラン大学で大学院を修了され、帰国後しばらくして北海道紋別の道都大学美術学部建築学科教授として、建築家を目指す若い世代を育てることに情熱を傾けはじめたのです。しばしば、大学の機関誌「IGLOO」を送ってくれて大学での様子を紹介してくれ、進行中の設計活動の状況を語ってくれたり、正月には鎌倉のお宅を訪ね、江ノ島の磯料理をご馳走になりながら美術と技術についてなど様々な議論をさせていただきました。美術学部長を勤める傍ら毎週のように札幌から道南の水辺の町を訪れ、まとめ上げた北海道内浦湾沿い漁家の街並み景観構造についての研究で2003年法政大学より博士(工学)を取得され、その後も専門の都市景観研究・デザインに磨きをかけ多くの研究論文を発表されてきました。2008年道都大学を停年退任、退任にあたってIGLOO誌に『建築と街をみつめて30年』と題し大学での研究活動を振り返っています。道都大学名誉教授となったあとは鎌倉のお宅に戻り、奥様によると連日パソコンに向かい、さらに各方面に研究の成果を発表されようとしているところだったようです。私にとっても嘗てのような交流の時間の到来を待ち望んでいたところでした。残念でなりません。
終わりに佐藤さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。
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