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目の前に現れた光景はあまりにも異様であった。どう考えても理解しがたい、理性を揺さぶられるような信じがたいものであった。 そこに横たわっていたのは、第18共徳丸という330トンの巨大な漁船だった。私がそこへ行き着くまでに気仙沼の港から約1km、一面の瓦礫の原っぱの中を通る泥道を歩かねばならなかった。道の両側は大きな水産加工工場の鉄骨の残骸が次から次へと続いていた。そこを抜けた先にたどり着いたところは、大船渡線の鹿折唐桑(ししおりからくわ)駅前だった。 震災後止まったままのこの鉄道駅のホームから見ると一面の焼け野原のまっ正面にその船は巨体を横たえていた。 この船をこんどの震災のモニュメントとして残そうという案があると聞いた。 もしそれが実現したら、すごい迫力があるに違いない。広島の原爆ドームに匹敵するイメージを世界に向けて発信し、後世の人々にも震災の経験を伝える無二のモニュメントになるに違いない。 だが、それを実現するには、あまりにも大きな困難が待ち受けていることも間違いない。被災者たちの複雑な心情を別としても、建造物としていかにして安定した構築物とするのか?メンテナンスに必要な巨大な費用をどうするのか等々である。 この時、原爆ドームを世界遺産のモニュメントとして認知させるほどの存在とした決定的な要因が丹下健三の広島計画であったことを思い出した。 ドームを焦点とした、陳列館、広場そしてアーチという構想。それらは原爆ドームなくしては、成立し得ないものであった。この計画が実現したためにドームは突然モニュメントとしての不朽の価値を与えられたのであった。丹下健三の天才的なデザインが取り壊されるかもしれなかった廃墟を永遠のモニュメントとして蘇らせたのだった。 この船のモニュメントが実現したら、また来なければなるまいと思いながら、さらに廃墟の中を歩きつづけた。 |
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