no.023 「旅・ちょっと昔の話」
     1966年卒業 佐々木宏ゼミ 梅松市彦
   
 

 学生時代聴いた佐々木宏先生の建築思潮の講義に刺激され、近代建築の実物を見たくなり1969年ヨーロパ旅行をした。当時ヨーロッパへ安く行く一般的な方法はシベリヤ経由だった。私も横浜からソ連船バイカル号でナホトカに渡り、シベリヤ鉄道に乗り換えハバロフスクへ。そこから国内線でモスクワに飛び(鉄道でも行けたが日数がかかる)2泊し、列車でレニングラード(現サンクトペテルブルグ)に行き1泊して、ヴィボルグ(フィンランド時代はヴィープリ)を通りヘルシンキ中央駅に着いた。横浜からヘルシンキまで8日の行程だった。

  現在は情報豊富でネット上でも調べられるし、有名な建築家の建物は懇切丁寧に行き方を書いた本も出ているが、当時はほとんど無かった。現地に行けば分かるだろうと出かけた。モスクワではル・コルビュジェの「セントロソユース」をさがして見に行った。市内に在ることだけは確かだが、インツーリストのガイドに聞いても知らないと言う。観光には関係ない、しかも冷戦時下でソ連の機関が使っているらしい建物。しょうがないと思ったが、市内の主な建造物をイラストで地図上に書いた、イラストマップをホテルに売っていた。建物の下に説明番号の書いてない、形が一番似たそれらしき建物の絵があったので、これだろうと判断し、混雑する地下鉄に乗り見に行った。駅を出て住人注視の中歩いて行くと写真で見慣れたセントロソユースがそこにあった。

  「ラ・トゥーレットの修道院」はリヨン郊外に在るということだけで行った。リヨン駅の案内所で聞いたら英語が分かるという女性を連れてきてくれた。しかしお互いチンプンカンプンな英語でだめ。街の本屋に行き、店員のおばさんにル・コルビュジェと2,3回言ったらコルの本がある棚に連れて行ってくれた。本から修道院の写真の下に書いてあるフランス語を書き写し、街中のインフォーメションに持って行き、それを見せて行き方を聞いた。バスの乗り場、番号、時刻、降りる場所等親切にメモしてくれた。翌日そのバスに乗り、運転手にメモを見せL‘Arbresle(鉄道駅も有って、帰りはリヨンまで列車で戻った。)で降ろしてもらった。そこからは電器屋から出てきた夫婦に道を聞いたら修道院まで車で送ってくれた。

  「ロンシャンの礼拝堂」は当時でも一般の人にも知られていた。リヨンからフランス東部の素晴らしい風景を列車の窓から眺めながらベルフォールにやってきた。ロンシャンの場所は「スイス国境に近いベルフォール近郊」とほとんどの本に書かれていた。泊まったユースホステルにロンシャン礼拝堂の大きな写真が飾ってあり、ほっとしたと同時に知られていることに嬉しくなってしまった。管理人に行き方を聞くとヒッチハイクが一番と言われた。翌朝国道上でオートストップを試みた。北欧やドイツではすぐにつかまった車もなかなか止まってくれない。一時間ほどしてフィアットだったか止まって乗せてくれた。パリに行くと言う陽気なスイス人。フランスの事をぼろくそに言う。ル・コルビュジェはスイス人だと自慢する。ロンシャンへ10kmという標識が見えた時、突然運転手は「ノートル・ダム・デュ・オー」と言い前方を指差した。はるか前方の丘の上に白く光る点が見えた。ロンシャン礼拝堂だ。パリに急ぐと言う運転手にロンシャンの村で降ろしてもらい、リュックを背負い2km程山道を登り礼拝堂に着いた。ロンシャンの礼拝堂は青空の下、朝日に白く輝いていた。

  アアルトの作品を見たくて計画し始めたこの旅行。北欧の近代建築に感動し、ドイツ、フランスに入りゴチック、ロマネスクなど古典建築を見るにつけ、近代建築のちゃちさを感じた。しかし、ラ・トゥーレ、ロンシャンを見たら、近代建築も素晴らしいではないかと再認識させられた。ヨーロッパの建築を見るならば北から南へ下って行き歴史を遡るのが良い。当時最も注目されていたフィンランドの現代建築を見ることから始まった、この旅の終わりもギリシャ・アクロポリスの丘だった。

 セントロソユース
 同裏側 写真を撮る私を見ている二人の男がいる。
 ンシャンの村 丘の上に礼拝堂が見える。(帰りはここまで尼さんの運転するルノーに乗せてもらい、さらにヒッチハイクでベルフォールに戻った。)
 
[プロフィール]    
梅松市彦
   1966年卒業 佐々木宏ゼミ
    1966年卒業 佐々木宏ゼミ
 3ヵ所の設計事務所勤務
1969年 3ヶ月半のヨーロッパ旅行の後 佐々木宏建築研究室
1975年 梅松建築設計事務所