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NYの修行時代のことを何か、書いて貰えないかとご依頼を頂戴した。バタバタ過ごす毎日の日々を、中々振り返ることはないのであるが、そんな時間があっても良いのではと、自分に言い聞かせ、ご依頼を引き受けることにした。編集の方には、結局催促を頂きご迷惑をおかけしている。ご迷惑ついでに少しおつきあい頂ければと想う。 今にして思えば、私がニューヨークに行くことなったのは、多くの偶然が重なり何かしたいが、見つからない。通常は、やってみたいことが、中々、天から降っては来ないのであるが、私の場合は、さいわいにも、確か三年生の文化祭の時に、クラブが出す喫茶店の客引きをしていた私は、亡くなられた河原先生を喫茶店に誘い込み、お話させていただいていた時に、「君みたいな奴は、NYの芦原君のところでも言って修行して見たらどうだ!」とおっしゃって頂いたのが、全ての始まりだったと記憶している。私が、どんな奴だったかは、さて置き、その素晴らしい先生のヒントが、私の気持ちに火をつけた。何か、自分が逆立ちしても、簡単に達成できそうもない目的が自分にできた瞬間だったのだ。その後は、早速、先輩の伝手をたどり、大先輩にあたる芦原先生に、修行させて頂くお願いをしたところ、「卒業設計を一等をとること。英語を話せるようになること。当時10,000ドルを貯めてくること。」という3つの条件を頂き、その条件にも困惑しながらも、NYに行って見たいという気持ちが強かったのか、自分を知らないから、無理だとか諦めるとか、只、「行くんだ…!」という気持ちだけだった。 振り返ると恥かしいものではあるが、何とか卒業設計一等をクリアして、教科としては、苦手な英語は、英会話に通いすぐに上達したとは言えませんが、何とかしたことに勝手にしました。最後のお金は、頼みの綱の父からは、自分で決めた道は、自分で稼げと今となれば、当たり前のことをいわれ、今で云うなら、就活もせず、親にはどこにいるとも告げず、卒業した時点では、先輩の家に居候させて頂きながら、設計のお手伝いをしたが、お金が貯まるはずもなく、最終的には約1年の歳月が経ち、焦りもありながらホストになるか、覚悟を決めて面接の電話までしたが、結局、体力勝負の佐川急便の採用に合格して、正社員として働くこととした。当時は、約6ヶ月間で、目標金額と飛行機代を稼ぐことができた。今思えば、喫茶店での会話から3年。何とかなるものである。振り返ればこの3年間の経験も、ひとつの修行でもあったように想う。
<次号につづく> |
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