no.026 建築学生はただ設計演習に取り組むばかりが能じゃない
2012年6月   2012年博士後期課程修了 安藤ゼミ 種田 元晴
   
 

 大学に11年間学生として通いました。長くいたおかげで得られた出会いと機会がいくつかあります。今回は、迷いと不安の最も大きかった頃の出会いの一幕を綴らせて頂きたいと思います。

 二一世紀に入った年、大学に入りました。未来世界の到来に胸を躍らせ、建築の可能性を盲信していました。もともと、手を動かすことは好きでした。日がな一日屋根裏部屋にレゴの街をつくり続け、その部屋の片隅には段ボールで小屋をこしらえて、そこに布団を敷いて寝る。そんな子ども時代を過ごしました。小学校の失業アルバムにも将来の夢は建築家、と書いていました。

 しかし、建築を学ぶには数学と理科ができないといけない。受験を控えた高校2年の夏、頭の固い私はそんな現実に立ちはだかられるのでした。理科はどうしてもできませんでした。困りました。それでも建築に進みたかった。先人たちを調べました。すると、美大で建築を学ぶ選択肢があることを知るのでした。今思えば、むしろ美大の建築こそが建築らしいのであって、工学部しか選択肢がないとの思い込みは、日本の進学教育にどっぷりと洗脳されてのことだったと述懐します。

 かくして、美大受験の予備校へと通い、鉛筆デッサンのトレーニングを重ねました。美大以外にも、理科に代えてデッサンで受験できる工学部系の学校も受験しました。念願叶って美大に受かりました。しかし、「美大は苦労するから工学部にしておけ」とのスポンサーの諫言に従い、結局、自宅から近かった法政大学を選ぶことにしました。法政大学もデッサン入試というイレギュラーな方法で入ったのでした。結果として、理科をやらなくても工学部に入れてしまったわけです。正攻法で攻め(られ)なかったわけです。思い返してみれば、正攻法で攻めることを徹底的に避け続けて生きてきたようにも思います。よくないですね。要するにひねくれ者なんですね。

 さて、ひねくれ者の私は、大学に入ってもとにかく周りと違うことをやってみせたいと思ってていました。そうして最初に行ったことは、大学に行かないことだったわけです。毎日毎日、塾講師のバイトに明けくれていました。夜授業をし、朝まで仲間と教育論を戦わせ、帰って寝てまた塾へ行く。そんな日々を送ってしまいました。

 一方で、ものづくりへの情熱を失ったわけではありませんでした。設計製図の授業だけは熱中して取り組んでいました。しかしこの取り組み方もどこかイレギュラーでした。平行定規を皆が使えばドラフターで線を引き、周りのみんなが妹島和世氏らの気鋭の建築家を意識しながら課題に取り組むのを横目に、私は土岐新氏などの建築を参照して設計製図に励んでいました。もちろん、わざとです。

 ひねくれ者ですから、当然、就職活動も正攻法でやれません。各企業の沿革を調べ、創業者の業績を紐解き、そして友人らに情報を提供することに勤しみました。自らを省みることを失念しています。就職という言葉の意味が咀嚼しきれていません。そのまま大学院に進むことになります。

 大学院では、建築家を志す同級生たちが設計競技に挑み続けていました。一方の私は、何気なく手にした川添登『建築家・人と作品』に感激し、そして、建築家の系譜や出自を暗記してはひとりほくそ笑む日々を送るのでした。もはや血迷いの域に到達したといっていいでしょう。いよいよ進路すら危ぶまれてきてしまっています。もう大学を辞めるべきかとも悩みました。

  そんな矢先に、大学で、院生がメタボリストの方々にインタビューする企画が持ち上がっていることを知りました。これは川添登に会える千載一遇の機会かもしれない、と大いに高揚したものです。進路などどこ吹く風、とにかく今しかできないことをやろうと、そんな心持ちでした。切願して、川添登のインタビュー担当を任せてもらいました。

 大塚駅近くの年季の入ったビルに、川添研究室はありました。扉を開けると、そこはまるで小振りな図書館のようでした。膨大な数の本が実に美しく仕舞われているではありませんか。ダークトーンの室礼は、川添登氏の弟で建築家だった智利(のりよし)氏の設計によるもののようです。玄関からのアイストップとして飾られたグラフィックデザイナーだったもう一人の弟・泰宏の作品が印象的です。クランクした薄暗い書廊を抜けると、ガラステーブルが陽光を映えたたえています。そのテーブルの前に、くりくりと目を大きく見開いた川添登さんが、いざ喋らんと待ち構えておられました。

 インタビューでは、「もうぼくは八〇だから言いたいことを言わせてもらう」と、数々の人名を飛びかわしつつ、川添さんの原風景でもあるかつての東京の様子が勢いよく語られました。もちろん、建築家の名前もたくさん出てきます。『人と作品』の愛読が功を奏して、聞き取りは円滑に進みました。運よく、「君、若いのによく昔の建築家たちを知っているね」と、川添さんに気に入っていただけました。インタビュー後も、原稿の修正や図版の作成などのお手伝いに足繁く通い、その度にご教示を頂くことができました。

 ある日、無謀にも、川添さんの仕事に憧れている旨をつい吐露してしまいました。いつしか、研究・評論の道へと進みたいとの意思が芽生えはじめていたのです。そんな若造の妄言にも川添さんは、「建築について論じるつもりなら、建築以外にもうひとつなにか専門を持っておかないとね」と真摯なアドバイスをくださいました。「人生無駄なことを一杯やってきたが、その無駄こそが大事だった」とのお言葉も忘れられません。

 別の日には、「今日は生活学会の研究会があるのだけど、君も一緒に行くか?」と誘ってくださいました。二人でタクシーに乗り、早稲田大学へ。アドバイスの延長として、民俗学、社会学など、建築以外の専門との接点を実際に示してくださったのでした。

 快活に議論をされた研究会の後、二人でファミリーレストランに行きました。そこで、「今日のぼくはちょっと尊大不遜だったかな?」などと自己反省されていた姿をみて、歯に衣着せぬだけではない、人としての温かさを感じました。そういえば入店時にも「おごらないよ?」と言われて入ったわけですが、しかし結局、「サラダバーとかいろいろ給仕してくれたし、今日はまあいいよ」というお優しさにも触れ、生き様を学んだ思いです。

 これを機に、建築を論じるべくまずは研究を深めたいという気が強くなり、かくして、私は博士課程に進んでしまうのでした。研究が続けられたのは方法論を与えて頂いた指導教官のお力添えによりますが、研究を志すきっかけを頂いた心の師として、今でも川添先生に私淑しています。

 

 川添先生へのインタビュー風景
 インタビューしたメタボリストたち
 
[プロフィール]    
種田 元晴
  2012年博士後期課程修了 安藤ゼミ
   

2012年大学院博士後期課程修了(安藤直見研究室)。博士(工学)。一級建築士。
現在、東洋大学ライフデザイン学部人間環境デザイン学科助手。「法匠展」の幹事も務め、毎年似顔絵を出展しています。
「法政大学55/58年館の再生を望む会」でも事務局を務めています。