その1:マルセイユのバス停
私は、コルビュジェのユニテ・ダビダシオンを見るべくフランスのマルセイユを訪れた。中心街からメトロとバスを乗り継いでユニテに着いた。折しも、その外周に足場を組んでメンテナンスの工事中であった。打ち放しコンクリートの外壁の端部は、ボロボロと菓子のオコシのようになっていて経年変化が、著しかった。
中に入ると、エントランスホールにフロントがあった。そこに座りこちらを見ていた管理人は、大柄のスキンヘッドの黒人で、格闘家のボブ・サップのように見えた。
恐る恐る「中を見てもよいか?」と尋ねたら、ボブ・サップは、「いいよ」と言い、笑って「屋上庭園に行くなら、そっちのエレベータだ」と案内してくれた。
途中階のメゾネット住戸に挟まれた中廊下を歩いていると、ひとつの扉が開き中から高齢の婦人が、現れた。うす暗い中廊下に私を認めると、「ボンジョール!」と声をかけてきた。私もできないフランス語で「ぼ、ぼんじょーる!」と返すとニコリと笑って歩いていった。
その表情は、「私の住まいは、ステキでしょ!」と自慢しているようにも見え、ここに住んでいることに誇りさえ感じているように見えた。
築55年も経ち、かなり老朽化が進んでいるのにもかかわらず、いかにユニテ・ダビダシオンが居住者に愛されているか、解体されず生き残っている理由がわかったように思えた。
屋上庭園のほか、併設されている幼稚園、ホテルなどを見て周り、フロントのボブ・サップに礼を言い、ユニテを後にした。
帰途に着くべく私は、敷地の前にあるバス停でバスを待つことにした。
どっこいしょとベンチに腰をおろし、ふと目を上に向けた瞬間、私は「えっ!」と驚きの声を発した。
なんとそのバス停の名は、「Le Corbusier」であったのだ!
恐るべしコルビュジェ!ここまで人々に愛されていたとは!
その2:スイスフラン
ロンドンで、ノーマン・フォスター、リチャード・ロジャーズ、ヘルツォ−ク&ムーロンを見て、帰国しようとしていた時の事である。
早朝、私はヒースロー空港に向かいスイスエアーのカウンターにチェック・インしようとしたが、スタッフ曰く、このチケットは第4ターミナル発のフライトだと言う。第4ターミナルは、ひと駅先だからもう間に合わない!タイムアウト!「Oh
My God!」状態である。
頭を抱えている私に、スイスエアーのスタッフは、私のチケット(格安航空券)とパソコンを睨みながら、しばらくして「You are very
lucky!」と私にチッケトを返してきた。私がいるターミナルから出発するチューリッヒ行きのフライトに空きがあるので、それに搭乗すれば本来私が、搭乗すべきチューリッヒ経由成田行きのフライトに先んじてチューリッヒに到着するので、今すぐにそれに搭乗すれば、成田に帰れるというものだった。まさに「I‘m
very lucky!」である。
おかげで私は、チューリッヒでゆっくりとビールを味わう時間をもつことができた。
まさに、災い転じてなんとやらである。
機中で、ポケットのつり銭をしまおうと紙幣を見ると、めがねを掛けたひとりの紳士の肖像に気づいた。紙幣を裏返すと建物のファサードが、描かれている。
よーく見ると外観を構成するルーバーは、見覚えのあるものだった。凝視するとそれは、チャンティガールであった。ということは紙幣の表の紳士は・・・・・・
ロイドメガネを掛け、蝶ネクタイを結び、髪をオールバックにした、その姿こそ巨匠ル・コルビュジェであった。コルビュジェは、紙幣になっていた。近代建築の巨匠、ル・コルビュジェがスイスフランの紙幣に、である。
丹下健三以降、国際的に活躍し、世界の建築をリードする日本人建築家たち。
彼らが、日本の紙幣に登場する時代は、来るのだろうか?
否、そのような時代が、来なくてはならないのだ。世界的に活躍する日本の建築家が、紙幣にその肖像が刷り込まれることにより、建築家の社会的評価が高まりひいては、近代建築の評価が高まることに繋がるであろう。その時、ようやく世界に誇る日本の近代建築の重要性が、認知され保存の対象であると評価されるであろう。その時がやってくるまで、我われ、「近代建築の目撃者たち」は、生き延び、その重要性を訴え続けなければならない。
その3:フィンランド、ユヴァスキュラのホテルウーマン
学部、大学院を通じ私は、森田茂介先生に北欧建築をご指導いただいた。
1982年、「百聞は、一見に如かず」と私は、ひとり北欧に向かった。
モスクワ経由で、デンマークのコペンハーゲンに入り、スウェーデンのイェーテボリ、ストックホルム、そしてフィンランドのヘルシンキと旅を進め、さらに北上を続けユヴァスキュラにたどり着いた。9月も半ばにさしかかっていた北欧フィンランドの避暑地は、ひと気もなく、うら悲しく冷たい風が、吹いているだけだった。この時期多くのホテルは、CLOSEDしていた。脚を棒にして、私はなんとか小さなホテルを、見つけることができた。
フロントでチェック・インしていると、白く塗られた木枠の大きな窓を通して、ひとつの建物が目に入った。「おやっ?」どう見てもA・アールトのデザインである。しかし私が、調べた中には、ユヴァスキュラにあのようなアールト作品は、なかった。しかし、どう見てもアールトである。私は、フロントの金髪の若い女性に尋ねた。
「あの建物は?」
「警察署よ」
「警察署・・・・・・」
私は、もう一度頭の中でアールトの作品集を、思い返したが、見当たらなかった。(しつこいが)あれはどうしてもアールトである。
じっとその「警察署」を見ていた私に、その金髪のホテルウーマンが、続けた。
「アールトの事務所の設計よ」
「あーやっぱり!」という思いと同時に、こんな田舎の小さなホテルの従業員が、A・アールトの名を知っているとは!
確かにフィンランドでは、作曲家のシベリウスとアールトは、国民的英雄だと聞いてはいたが。
日本であったらどうであろうか?日本を代表する建築家が、設計したホテルのフロントで、このホテルは、誰の設計かと問うてみたら果たして答えが返ってくるだろうか?(意地悪な質問なので、未だ私は、試してはいない) |