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先日、ある建物を設計したとき、左官材に練り込む粗骨材を関係者で石を砕いてつくった。求められた粒度の石を得るためには“砕く”以外に方法がなかったというのも理由の一つだが、多くの人が建築に愛着を持つためにはこの方法が適当だと考えたからだ。
瀬戸内海に浮かぶ大島という島で採れる大島石。その石を砕くために、島に向かった。島の北側にある砕石場へは、途中で自分たちの車を降りトラックに乗り換える。トラックはスキーの上級者コースの様な山道を一気に登っていく。後ろを振り返ると死ぬ思いだったが、運転手は意に介さない。笑いながら「ときどき、スリップして崖に落ちるのよ・・・」と冗談なのか本当なのかわからないことを言う。採掘場に着くと、その光景は圧巻だった。極端に蹴上の大きな階段状に削られた石は、人の力がこれほどなのかと思い知らされた。そこで、石のクズをもらって作業場に移る。何人かで取り憑かれたように石を砕きながら、篩にかけた。最初は楽しそうに話しながらやっていた作業も、そのうち黙々と集中し、さらにその後は険悪なムードになった。それでも終わりが見えるとまた集中し、もう一度黙々と作業に戻る。半日を費やして、ようやく全てを砕き終えた。みんな、苦笑いしながら「二度とやりたくない」と言っていた。
半年以上経って、建物が竣工すると、その中の一人が外壁に手をかけながら笑顔で僕に言った。「これ、僕がつくったんよ」って。苦労の多い建物だったが、誇らしげな顔を見ると、たぶんこの建物は色んな人の愛情を受けるだろうなと思う。 最近、建築との関わり方を模索するために多くのワークショップが催される。中には住民参加の“踏絵”に用いられることもあり、その全てが良いとは全く思えない。逆に、民主的な方法が必ずしも現状を打開できるほど状況が甘くない場合も多い。ただ、こういう契機を持つことで、施主やユーザーと建築の距離を縮めてくれることを実感する。また、その方法でしかできない形状や空間にふれると、それは風景と言うより風習をつくる様な素敵な出来事になるのではないかと思う。
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