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私は卒業後、昨年退官された富永譲さんのところで故郷に戻るまで働いていました。
地元福島では、2度目の(公社)日本建築家協会福島地域会の会長を拝命しておりますが、昨年11月に福島でJIAの支部大会が開催されました。
我々がやるべきことは次の世代に何を残すのかということに尽きると思います。 この思いは、原発被害で翻弄される福島に居ると強くなります。 この報告書はJIA東北支部大会で福島の帰還困難地域に多くの建築家と入った時のもので、2015年1月号のJIAマガジンに掲載されました。
ぜひ法政のOB、学生の方にも福島から見える現実を知っていただきたく、投稿しました。
JIA東北支部建築家大会2014福島 報告(2014.年11月7,8日開催)
東北支部大会実行委員長 阿部直人
東北支部大会の開催県として、TVや新聞に出ない福島の特殊な状況を多くの建築家に見てもらい、建築家がこれから「何が必要で、何ができて、何をすべきか」を真剣に考えてもらおうと『あとから来る者のために』というテーマを掲げました。
現在、町内の96%が帰還困難区域となっている双葉町に視察の目的や主旨を添えて公益目的による一時立入申請を行い、慎重な審査により許可をいただき、11月7日に約100名の建築家が相双地区の原発事故による帰還困難区域に入ることができました。
福島駅から3台のバスに分乗して国道114号線を太平洋へと向いましたが、阿武隈山地の谷間を縫うこの道路は原発が爆発した時に相双地区の人々が避難をしてきたルートであり、避難者を追いかけるように放射性物質が県中央部に流れ込んできたルートです。そこを通り、居住制限区域の飯館村に入りました。ここは原発から40km離れていますが、見かける人のほとんどが除染の作業員で、どの家にも人気はなく、村を通行はできますが住むことや店を開くことはできません。現在、除染が行われ、田畑のあちこちに放射性廃棄物を詰めた黒い袋が延々と並べられていました。バスが原発に近い南相馬市に入ると、人が普通に生活している光景に変わります。放射能の数値によって町の様子が一変する、(距離などでは計れない)問題の複雑さを痛感します。全面開通になった国道6号線を双葉町に向って南下すると、停車や下車は禁止、両側の帰還困難区域との境界に金属のバリケードが設置され、交差点には警備員が配備されるなど物々しくなります。その検問の一つから参加者全員の名前を記した許可書を見せて帰還困難区域に入ると、誰も居ない双葉町役場の駐車場で役場職員が出迎えてくれました。
町民は申請をすれば自宅に入れるが年15回のみ、将来町に帰りたい希望者は全町民の10%台、役場の隣は中間貯蔵施設予定地といった状況の説明と視察の注意を受けた後、役場の方々に案内していただきながらバスの中から町を見ていきました。田畑にはセイタカアワダチソウとススキが群生し、震災の後片付けができず崩れたままの家が道路をふさぎ、雑草が道路のアスファルトを突き破って伸び放題、そんな人がいない異様な町の様子を参加した建築家はそれぞれの脳裏にしっかりと焼き付けたのではと思います。
大高正人氏が若い時に設計した福島県教育会館で開催された2日目のシンポジウム、『人として生きることと、建築家として生きることがずれていないか』内藤さんがおっしゃったこの言葉はとても重く、心に響いています。
福島市に戻るバスの中で出た意見から
・全く違う内科的な被害の現実を見て、津波を受けた三陸とは異なる無力感を感じた。
・思った以上の別世界だった。
・多くの専門家が関わってもあの事態が起きた、職能倫理の基本に戻らないといけない。この悲惨な現場で頑張る人たちの気力と知力を出来る限り支えたい。
・今後もこの場所の復興の時間軸をしっかりと見続ける事が大切。
・時間が止まっているようで悲しい。
・未来の人類の生存に関わる問題を突きつけられている。省エネしながら再生可能エネルギーもつくるなど、発電だけでなくパッシブや古の知恵も含めて考えていく。
・除染袋が並ぶ様子、体験したことのないやるせなさ。何を考えて良いかわからない。
・経験のない嫌な感じの視察で何と表現して良いか分からない。匂いもなくつかみどころの無い感覚、放射線に勝てる方法はないか
、何とか楽しく生きる方法は無いのか。
・人間には制御できない再生可能エネルギーにシフトするのが極めて現実的、冷静に受け止めて福島から変えて行くことが必要。
・時間が止まっている町、見た者しか感じられない事実を伝える責任がある。そして、想像力を発揮してどうすべきか考える。
・賢くならないとまずい。僕らに見えてないところに核心があるように思う。それを知ろうとする努力を怠るとダメで、勝てなくても負けないためには情報量が大事、活動を続けることが必要。
・津波に襲われ、今まで地域社会の縁が濃くて嫌だと思っていたが、失った今は寂しい。人の回復には時間がかかる。復興には生業が必要で、住むところだけつくってもダメ。
翌日のシンポジウム等で出た意見から
・現在、避難している家と戻るべき家、2地域居住という生き方をもっと考えてみる。
・遠くても困難でも、人は墓参りに帰る。先祖とつながっていたいのか、墓に人は集まる。
・今後、財政破綻をする自治体が増えるかも、集団移転と区画整理と防潮堤の3点セット、低地の人口密度減らしてそこを防潮堤で守るという矛盾。
・川沿いに区画整理の残地を集めて緑地を確保した。
・シミュレーションはやっても良いが同じ津波は来ない、さらに干渉波は予測が立たない。
・防潮堤をつくり、100年に1回の災害に備えて耐えて暮らすか否か、これは哲学の問題であり、自主性に任せる復興のあり方や考え方があってもいい。大槌の赤浜では漁民の結束が強く防潮堤はつくらない。
・30年、40年の体内時計を建築家が持ち、被災者と話が通じるように夢を描いて見せれば帰還希望者は増えるはず。絵を描けるのは建築家しかいない。
・原発事故はまた起きる、福島はその活動を記録として残すべき。
・何をすべきなのかをよそ者が言うべきことではなく、被災者の人達の意思として出て来なくてはならないが、我々は彼らの意思の種を蒔くことはできる。
・あとから来る者のために、タネを蒔いておこう。
「あとからくる者のために」 坂村真民『詩集・詩国』より
あとからくる者のために 苦労をするのだ 我慢をするのだ 田を耕し 種を用意しておくのだ
あとからくる者のために しんみんよ、お前は
詩を書いておくのだ
あとからくる者のために 山を川を海を きれいにしておくのだ ああ,あとからくる者のために
みんなそれぞれの力を傾けるのだ
あとからあとから続いてくる
あの可愛い者たちのために
未来を受け継ぐ者たちのために
みな夫々自分でできる何かをしておくのだ
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