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私は、新潟県の中越部に属する見附市という雪深い土地で生まれ育ちました。実家の家業が材木店であったため、幼い頃より木の中で育ちました。製材前の丸太に登ったり、製材する機械を遊び道具にしたり、製材ででた廃材を利用して遊び道具をつくり、同世代の近所の子供達と遊ぶ毎日でした。 家族は、お祖父さん、お祖母さん、両親、叔母さん、姉、兄、従兄弟と12〜13人の大家族でした。そのほかにも、家族同然に接していた大工さんや従業員の人達がいました。当時の家長であるお祖父さんも材木屋さんだったのですが、設計や施工も一緒にやっており、大正モダンの住宅や医院等をつくっていたようです。そんな家族の中で、私が一番の年下であったため、いろいろ面倒をみてもらい、多感な当時の自分の性格が形成されていったように思います。 生活はというと、とても寒い冬に、板の間で正座(うすべりを敷いて)して、食事をしていた事や、母の手伝いで薄暗い時に起きて、ごはんを炊くマキ等の用意や、夕方のお風呂(マキの風呂)の火付け役など、つらかった思い出があります。 このような環境で育つうちに、自然と、生活する事とその生活する家を造る事に感心を持つようになり、生意気にも、小学5年の時の作文に、将来建築家になると書いた事を覚えています。 18歳の時に大学で建築を学ぶために上京しました。この大学の4年間で学んだ事は、自分にとっては衝撃でした。お恥ずかしい話ですが、大学で学ぶ前は、建物を設計する事は、図面を書く事だというくらいにしか考えていませんでした。大学の建築学科は、図面の書き方を学ぶ場だというぐらいの認識でした。 大学で、講義を受け、本を読み、建物をみてまわり、時には朝まで友人達と討論するうちに、「建築を設計する事」を学びました。 その後は、我武者らに、無我夢中で自分なりに設計をしてきたと思います。最近、池井戸潤原作の「下町ロケット」というテレビドラマがヒットしていますが、技術の大切さを描いています。建築の設計は、もちろん思想や芸術性も大切ですが、同時に技術も同じくらい大切だと思っております。 |
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