no.084

喜寿 富士山登頂をめざして
   

森田克己(1963年卒業 山田ゼミ) 


 

 「ストップ! ストップ!」声もむなしく、氷の斜面にピッケルを突き刺して制動をかけようとするが寒風にさらされた青氷、一筋の線条を残して2年生のMは約650m滑落した。富士山吉田大沢、昭和36年11月24日。

 

 法政大学工学部山の会(HTAC)は冬山合宿前の雪上訓練に毎年11月末に五合目にテントを張り、雪や氷の斜面でアイゼン(山靴に履く鉄の爪)、ピッケル、ロープワーク等の練習合宿を行う。
 私は建築実習の授業で遅れて合宿に合流するため、麻布校舎4階建の屋上の部室に戻ってきたところ、S先生が来られて「富士吉田警察から警察電話で法政大学生が富士山で事故の旨」警察に出向くようにとのことであった。
心穏やかならず、新宿―大月―富士吉田駅から富士吉田警察署へ直行する。
 受付担当者は「富士吉田病院の霊安室だ」と告げた、一瞬鉛玉が胃袋に落下。

 上野発、金沢行、最終夜行列車にも関わらず多くの先生方の見送りを受けた。
早朝、遺骨を胸に抱き金沢駅頭、わーっと若者に囲まれた。幼馴染の友、友。
 翌年、五合目から六合目の登山道から脇に入った岩壁に金属版製の慰霊碑を取付けたが、寒暖の影響で貼付け文字が剥落した。
昭和51年、千葉県立美術館設計監理の時に彫刻家イサム・ノグチ氏の関連、高松市の庵治石の工事会社が、「そういうことならば」と石碑制作を受けてくれ、工学部長の揮毫を手渡した。(昭和51年10月号建築文化、新建築等に掲載)
慰霊碑(横500×縦500×厚80≒50kg)、セメント、水、工具を車に積んで、急坂の登山道を後進のエンジン全開で登り、脇道は担いで運び、岩壁の一部、腰掛け台形状のところに設置した。

 

 平成23年7月、小学校6年の孫と父親と3人で登頂したが沖縄に台風が近づいた影響のため強風雨で噴火口の周りを歩くお鉢巡りは禁止であった。
 下りはざらざらの道を五合目まで6時間、さすがに脚力がなくなり、すってん、すってん、何度もまともに転んだ。富士山は登りは高山病、下りは膝のがくがくで下りがきついといわれる。思い起こせば卒業以来半世紀が過ぎていた。
 平成23年9月、山の会のOBが集い50年の節目の慰霊祭を開催した。
遺族・僧侶は北陸から、OBは遠くは関西から参加した。OBも高齢化し、すでに半数は物故者、今回の慰霊祭をお別れの節目とした。
 Mは新人の頃、方言に気後れして寡黙であった、高校時代に山岳部で加賀の白山に登っており、小柄ながら鍛えた体は合宿でバテることはなく、以前からやっている高山植物を本と見比べるなど調べる余裕を持っていた。
 これから、慰霊碑はだれが見守るか、遺族は毎年、夏のお参りはしんどくなったという。私は自分の手で建立したからか先々を気にかける。毎年、火山石の流れで地形が変わり、様相の変化し続けるところでいつかはうずもれてしまうのか。
 私の体力があるうちは毎年お参りをするつもりでいる。山に行こう、スキーに行こうと思っていると、日頃の生活で身体を動かすことを意識する。
 三浦雄一郎さんが平時に30kgのウエイトを身に着けて行動している。三浦敬三さんは100歳過ぎても毎年スキーのために独自のトレーニングで鍛えていた。凡人はできないが、今年は年齢の節目、喜寿、頂上のお宮で70歳以上の登頂者に贈られる印半纏を受けて、日の出を仰ぎ、噴火口のお鉢巡りを楽しみたい。

 

 
人の立ち入らない場所に設置された慰霊碑
   
 
  Mと共に登った上高地から見る穂高岳
   
  咋今、OBとともに雪山に登る
   
  高尾山から望む冬富士の吉田大沢
   
   
 
[プロフィール]    
もりた かつみ    
森田 克己 1963年卒業 山田ゼミ

   
1940年 東京都江東区北砂町生れ
1963年 法政大学工学部建築学科卒業 山田水城ゼミ
1963年 田口建築設計事務所入所(医療・病院)
1968年 カトー設計事務所入所(市民会館、市庁舎、体育館)
1971年 大高建築設計事務所入所(文化会館、美術館、博物館)
1982年 「学校施設総覧」(共著)
1985年 森田総合計画事務所設立 (江東区北砂)
1991年 「想いDE写真館 ふるさと江東いまむかし」出版委員
2000年 法政大学大学院工学研究科修士課程修了