|
||||||||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||||||||
繁忙期を越えた三月のある朝、仕事へ向かおうと玄関の鍵を閉めて歩き出したときだった。私もあちらも油断していて、お互い目を合わせたまま固まった。狸は我に返ったようにして走り逃げ、我が家の門を出て左へと曲がったので、私は早歩きで追いかけた。しかしどうも見つからず、ふと近所の家の玄関先を覗くと、信楽焼の狸と目が合って笑ってしまった。私が小学校へ通っていた頃から置いてあったもので、間の抜けたような雰囲気と可愛らしさからか、妙に記憶に残っている置物である。自分で思っているよりずっと疲れていたのかもしれない…。 「狸」という漢字はケモノ偏に旁は里、人里に現れるケモノと読めるが、私が会ったのはこの時が初めてだった。確かに私の住んでいるところは人がたくさん住んでいるが、里という雰囲気ではない。ふとスタジオジブリ作品『平成狸合戦ぽんぽこ』を思い出した。一九六〇年代の高度経済成長期、宅地造成によって故郷を奪われる狸たちの物語である。棲み処を譲るまいと人間に闘いを挑んだ狸たちは最後、人に化けて人間の世界で暮らすことにする。コミカルに描かれているこの結末だが、「あの人もこの人も、ひょっとすると…」と自分の身の回りの常識を疑ってしまうような、不思議な終わり方である。化けた狸に気づくことができるのは狸だけだろうか。 入社後まもなく、一人で外部の業者と打ち合わせしたときのこと。椅子の生地を張る業者との打ち合わせで、「中に入れるウレタンの構成はどうしましょう」「角の納まりはどうしますか」と聞かれたとき、今まで全く考えたことなどなかったようなことが急に頭の中に立ち現れてきて驚いてしまった。「お任せします」と言ってしまえばそれで終わりだったかもしれないが、あのとき業者の方とウレタンを押してみたり生地を引っ張ったりしながら、一つ一つ確認したときのことをよく覚えている。 木製家具メーカーで働き始めて早1年、新しく開発の仕事に携わることになった。ある金物を開発するにあたって、上司が参考のためにと市販の金物を分解して調べていたとき「中からこんなものが出てきた」と、ある重要な機能を担っている部品を見せてもらった。そこには、単純な仕掛けだが決して一朝一夕には思いつくことなどできないような、そんな機構が隠されていた。おそらく金物開発の世界では使い古された仕掛けなのだろうが、表面上は見事にシンプルな操作性のインターフェースに化けていた。今まで何度もその金物を見たことはあったが、 何故かその中身を疑ったことは一度もなかったことを考えると、どうやら今までうまく化かされていたらしい。 生地の中に隠れたウレタンの構成、何気ない端部の納まり、金物の優れた動きを支える部品。常識という盲点の中に化けたものに目を凝らし、新しい可能性を探りたい。
|
|
|||||||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||||||||
[ essay
top ] |