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「空間構成室」 造形演習の講義を受けたのが二年生の時でした。一、二年生のどちらかで必ず受講しなければならない必須講義で、その講師をしていたのが吉江先生です。デッサンの基礎から始まり、最後は作品(私の時は照明装置でした)を 作るという講義内容で、その作品作りや講評に使われたのが空間構成室という場所でした。元々は彫刻家の飯田善國教授が使っていた部屋だったと聞いています。そこは半地下の部屋で薄暗く、グラインダーやボール盤・卓上糸鋸盤などの工作機械が置いてあり、壁際の棚には学生の作品が並べられ、その棚の上にはアポロやマルスといった石膏像が何体もありました。そんな中で学生が課題の作品制作をしたり、ゼミ生が卒業設計の模型を作ったりしていて、初めて来た人はその混沌とした空間に「何かすごい部屋だね…」とよく言っていました。そんな空間構成室が賑やかになるのはいつも夕刻過ぎてからでした。 「じゃあこの後鍋でもやりますか」空間構成室に戻った吉江先生からの一言に、僕たちゼミ生の他、話を聞きつけた先輩後輩、違う研究室の友人等がわらわらと空間構成室に集まってきます。話題は建築の話から映画や音楽、恋愛相談まで話は多岐にわたっていました。集まる人達は良い意味で普通ではなく、道(建築)から外れかかっている人が多かったです。吉江先生はそんな人達の話を聞いたり、時には相談役になって親身になって一緒に考えたり、自分の経験を元に助言したりする事を楽しんでいたように思います。私はそれを横で聞いているのが大好きで、それが空間構成室の風景だったんだと思います。 「アンテナを張れ」「建築の世界にだけ浸っているだけではダメだ」吉江先生は普段から口癖のようによく言われていました。それに呼応するように外へ出て情報収集し、それを空間構成室での酒のつまみにするのが私たちの役目でした。 学外では吉江先生のアトリエにて皮膜彫刻制作のお手伝い、個展の会場設営、舞台美術の設営のお手伝い等、色んな現場について行って学ぶ事が多々ありました。空間構成室での吉江先生とは違い、現場で仕切る吉江先生の眼光の鋭さと場の緊張感は学生からしてみれば鬼気迫るものがあり、いつも緊張していました。これは大学の講義では絶対に身に付かない貴重な体験でした。
「吉江の教え」
大学を卒業して約十年間東京で働いた後、今は地元の三重県に戻って家業を継いでおります。会社は先々代までは材木屋だったのですが、今は木材・建材も売りつつ、住宅をメインとする小さな建設業で、簡単な敷地測量、設計・監理、施工、現場監督と何でもしています。吉江先生から具体的な建築に対する教えはほとんどありませんでしたが、現場でのコミュニケーション、他分野に目を光らせる事に関しては自分の中で自然と身に染み付いているんだな、とふとした瞬間に思います。山と海に囲まれた自然豊かな土地柄でのんびりとやっていますが、「吉江の教え」を守りつつものつくりを楽しんでいます。
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