no.096

農家住宅の再生を通じて
2018年6月  

須田 睿一(1968年卒業 大江宏ゼミ) 


  卒業後、建築事務所勤務を経て、赤城山を背に関東平野を見渡せる群馬の地に戻って独立。独立して四拾年数年にならんとしているが、その間、多くの分野の人と出会い、助けを得て現在に至る。独立当初は、住宅の設計を中心に活動。多くの仕事に携わってきた。

 20年ほど前、生家の改築の話が出た。兄の子供世帯(4人家族)が同居することになったためである。生家はその時点ですでに百三十年〜壱百四拾年を経ていて、規模は、桁行十三間(24.518b:1間=1.886b)梁間五間半(10.373b)六間取りである。柱は礎石の上に立つ「石場建て」「ヒカリツケ」工法による総二階建ての典型的な農家住宅(天窓=櫓が付いていないので養蚕農家の作りではない)で船竅iセガイ)造りである。

 大学時代、大江宏先生の計画の授業で「『新奇主義』に走らず『時代の淘汰に耐える』設計が大事である」と、教えられたことが耳に残っていたのと、この地に100年以上変わることなく佇んでいた建物を壊すことは、地域の原風景をも壊してしまうのではないか。更に、建物の素材の迫力と美しさに圧倒されたこともあり、素材を生かした改修を提案した。 概算工事金額は新築しても尚余りある金額となり、「新築であれば現代風で機能的な家ができる」と反対の声もあった。しかし、兄の「俺の生まれ育った家なので残したい」(小生も生まれ育った家であるが現在は兄が所有)の一言で改修に踏み切った。

 2階の床レベルを測定したところ、一本の柱を約二寸弱持ち上げただけで均一になったのは、楔や栓、通貫で作られた建物としては驚きであった。また、床材を削り直しても充分に再利用できる厚みがあったこと。削り直した板目が美しいだけでなく、埃の中に埋もれていた手斧の跡やその技。丸太の自然の曲りを上手に架構していること。更に、一部解体して驚いたのは、壁散りには隙間風を防ぐために細い縄をめぐらせて有ったこと等。この工事で随所に先達の創意工夫の跡に出会えたことは感謝であった。竣工後「解体しなくてよかった」と家族の話を聞き安堵したところでもある。

 こうした経験を経て、やむなく建て替えをすることになった案件では、出来るだけ住み慣れた家の一部を利活用し、新しい家に組み込むようにしている。ある案件では、新築お披露目に施主の兄弟(六人)を招いたところ、利活用した扉や床の間、障子を目にし、彼らが子供の時の話しに花が咲いたと伺い、何かホッとしたものである。

 昨今、古材活用とか古民家再生と言われているが、こうしたことがベースになっているのだろうか。新たに造り替えることは安易であるが、それらを伝承し続けることも大事であること。単に利便性を求めるだけでなく日本の風土に育まれてきた文化・伝統を如何に次世代に残していけるか、と問いながら日々取り組んでいる。

 

 
生家の外観
   
 
 
   
2 階和室の交差する梁
   
   
   
   
   
 
[プロフィール]    
すだ えいいち    
須田 睿一 1968年卒業 大江宏ゼミ

   
1941年群馬県生まれ。建築設計。
1968年卒業(大江宏ゼミ)。
1968年〜1970年創建社建築設計事務所。
1970年〜1979年川上玄建築事務所。
1979年〜1989年須田建築計画工房主宰。
1989年〜株式会社須田建築計画工房代表取締役。
趣味はゴルフ・写真。