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「出身はどこですか?」という何気ない質問に、私はだいたい一瞬たじろぐ。「(たぶん)横浜です」と答える。たぶんは声に出さず心のなかで、そっと添えている。東京に生まれ、横浜で少し過ごしたのち、三歳の頃父の仕事の関係で渡米した。五年後、八歳で日本に帰国。再び横浜におさまり、現在に至る。 「家」という言葉を聞いて最初に脳裏に浮かぶのは、やはりアメリカで暮らした家である。日本で過ごした幽かな記憶に、アメリカの日常が原風景として折り重なっていった。徐々に日本は、私にとって強く憧れる地になった。大げさだな、と思われるような気もする。ただ、幼少期に抱いた感情、自分の言葉が周りに通じなくなった衝撃と喪失感は、確かに今も尾を引いていて、この憧憬はなにかと大切な動機になっている。 自分の出自と、建築の世界とが少し重なって見えてきたのは、学部生の頃、脱構築主義建築を知った時だった。すでに全盛期は過ぎ、単なる形態の遊戯に過ぎないと烙印を押されていたものの、二項対立の解体と再構成を志向する脱構築の考え方には、惹かれるものがあった。卒論では、ダニエル・リベスキンド設計のベルリン・ユダヤ博物館をとりあげ、脱構築主義建築の現代的意義を述べる、というのをテーマにしてみたけれど、学部四年で大層なことが書けるわけもなく、撃沈。わずか三十四ページの極薄卒論に終わった。 修士課程に進学し、卒論の初心も忘れふらふらしていた時、安藤直見先生から、法政大学55/58年館の青焼き図のスキャンデータを頂いた。解体が決定された今できることはないか、という先生からの投げかけだった。建築自体は正直あまりピンとこなかった(今となってはベタ惚れである)けれど、設計者である建築家の言葉に触れた時、深い感銘を受けた。単一の価値尺度ではなく多元的価値を、安易な整合性ではなく豊かな矛盾を建築に包含していくという彼の設計思想は、私には身体の実感をもって、響いてくるものがあった。広く世界を視野に入れながら、建築家・大江宏が見通していた日本とはどのようなものだったのか。その理解を踏まえた上で、私自身にとっての日本を考えてみたい。あまり褒められたものでない曖昧で個人的な動機をもって、今私は大江宏研究を進めている。 感銘を受けた大江宏の言葉に、出来るだけ多くの方が触れる機会を作りたい。そう考え、SNSのtwitter上で大江の言葉を日々発信する「大江宏bot」(https://twitter.com/Hiroshi_OHE)を作成した。2012年の開始から5年、フォロワーは現時点で1600人を超えている。このbotが契機となって、雑誌『建築と日常No.3-4』では大江宏特集を組んで頂くことができた。また、その雑誌を通じて大江に関心を持った若手建築家達からお声がけ頂き、学外の方々向けに大江建築ツアーを企画することもできた。参加者は30名以上と盛況、うち10名程は留学生だったのが印象的である。大江宏再評価の機運が、徐々に高まっている。
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