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私が法政大学に入学したのは1976年です。少し回り道をしてからの入学でした。 学生時代は課題に明け暮れ、本を貪り、そこで得た建築感を同期や後輩たちと酒を交わしながら議論に明け暮れるといった楽しい日々が続きました。3年生となった後半、どのゼミを志望するかの時期が来ました。すでに歴史系の建築本や日本思想系の本が下宿の本棚を占拠していた私は、大江先生が最大の興味の対象であり憧れの的でした。先生のそばで直にご教授願いたいという思いは募るばかりでした。 当時の大江研究室は、近寄りがたい雰囲気が漂ってました。中々一年で単位をもらうには難しい研究室として有名でした。そのためか私の学年も門を叩く勇気のある学生は無く、私もずいぶん躊躇し、悩みました。結果、最初の募集には違うゼミを選びました。 その後、学内で複数年に渡って大江ゼミに学生がいないのが問題となり、再度募集を募ることになりました。一度は決断したはずの悩みは継続することになった訳です。 悩んだ末に出した結論は、縁あって法政の門をくぐり、憧れの大江先生に直にご教授願うチャンスを放棄することは一生悔やむとの思いで、これまでの課題作品を携えて面接を受けることにしました。結局、応募したのは私一人でした。 と言う経緯を経て大江研でのゼミ生活が始まりました。今思うと自ら追い込んだこともあったようにも思いますが、その直後から息を抜く間もないタイトな日々が続くことになりました。時折、倉田(康男)先生もお見えになり、両先生はビールを飲みながら、テーブルに広げた私の徹夜で作成した課題などはそっちのけで色々な話を私の前でされていました。先生の出来上がったばかりの角館伝承館(1978年)やその頃取り掛かっていた国立能楽堂(1983年)の話や磯崎新との対談の話などなど、実に多岐に渡り興味深い貴重なお話をお聞かせいただきました。 ただ、いつになったら自分の課題に向き合っていただけるか不安な日々が続きました。どうにかペンを取っていただけたのは随分後だったと思います。当然、卒業設計が完成したのは締め切りギリギリになってからでした。後日、有楽町の事務所まで出向き、先生の最終講評を受け、合格点を頂くことがようやく叶いました。 先生との深く濃密な一年は、今も私の中で極めて大きなウエートを占めています。 現在、私は金沢を拠点に小さな事務所を構えています。今から十数年前に郷里の山中温泉というところで「山中座」という小劇場と共同浴場を組み合わせたプロジェクトに携わる機会を得ました。師の教えを携えながら出来上がった作品です。 先生の講評は叶いませんが、先生の一番の理解者でした鈴木博之先生の目に留まり、建築士会連合賞の審査員として現地に来ていただき推薦文を書いていただく幸運に恵まれました。 先生に見て頂けたらどのようなご指摘を受けるか、今も時折、自分の中で問いかけている私です。
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