このエッセイを今、東京へ戻る東北新幹線の中で書き始めた。エッセイの依頼を受けたときは大学でも建築でもないちょっと変わったことを書こうと企んでいたのだけれど、書かざるを得ないタイミングで書かざるを得ない経験をしたので新幹線の揺れに耐えながら勢いのままに書いている。
過日、私が共同主宰する設計事務所で設計監理を行った仙台近郊に建つ建築がとある建築賞の現地審査の対象として選ばれたと連絡があった。嬉しい気持ちと不安な気持ちとが半々だった、いや不安な気持ちが大部分を占めていたと言ったほうが正しい。その理由は、この賞の審査委員長が他でもない大学時代の恩師であるからだ。当然現地審査にもお見えになるとのこと。私はといえば、先生にお会いするのは卒業以来という不義理極まりない教え子であるし、そもそも大学時代から扱いにくい学生だったはずである。きっとこの不安や複雑な思いは理解されにくいだろうし、見てもらえて嬉しいじゃないかとさっぱりしたお考えの方のほうが多いかもしれないが、そうもいかないややこしい人間もいるのだと我慢して読んで欲しい。現地審査が初対面であったらどれほど楽だったかとさえ思っていたほどなのだ。
今日の現地審査を迎えるまで、なにをどう話そうか、どんな態度で望めばいいか、ずっと考えていた。これは恩師との再会である前に建築賞の現地審査なのである。
結論がでないまま、敷地の前で審査委員の方々の到着を待つ。 大型のタクシーから審査委員の面々がお一人づつ降りて来られ、最後に先生が姿を見せる。
「富永先生、こんにちは」 迷いながら挨拶をする。お久しぶりです、はやめておいた。 「あぁ、はい、こんにちは」
懐かしい湿度のある声だった。
個人的なやりとりをすることもなく、建物の中に案内し説明をはじめる。始まってしまえばあっちからもこっちからも様々な質問が飛び交い(そう、身構えるべき審査委員は富永先生だけではないのだ)必死に打ち返している間にだんだんと空気が柔らかくなっていくのを感じる。建築に助けてもらいながら濃密な時間が過ぎていく。
先生の言葉は鮮やかだ。 にこやかな表情と優しく美しい言説で、決して追い詰めず、のらりくらりとしているようで核心をつく。
そうして発せられた言葉にハッとする。ああ、そうだ、こういう語り方をされる先生だった、と大学当時の記憶が蘇る。
大学時代、すべてが疑問だった。当時もし、建築とは、建築家とは、とべき論を振りかざし頑張れ頑張れと背中を押されていたら私は今設計をやっていないとすら思う。あるいは、なんだかそれっぽい何かをやっているふりをして過ごしていたかもしれない。
先生はその著書の中で、ご自身の生い立ちを語りながら「『早さ』が大切なのではない。むしろ回り道のプロセスにこそ個性は育つだろう。興味のある方向を見定め、そちら方向に根を伸ばし、そこから固有の経験を吸い上げ、ゆっくりと『どこにでも』ある人から『ここにしか』ない姿の建築家になっていく熟成のプロセス。」*と述べている。先生の言葉や学生への接し方はそのような考えが根底にあると強く感じる。当時だって私の準備ができるまで急かさず待ってくださっていた。
そして20年近く経った今やっと、こんなことに興味があってこんなことやってます、と設計した建築を見てもらいながら報告した。
「生活の『かた』からどんな建築家が生まれるか、それは誰にもわからない。」先生はこうも書かれていた。
当時は決して今日のような日が来ると、私も含め誰一人として想像していなかっただろう。 誰にもわからない。そしてこの先もなにひとつわからない。
怖くもあるし楽しみでもある。
*『富永譲・建築の構成から風景の生成へ』鹿島出版会,
2015
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