no.126

ドイツで働いていた頃
2020年12月  

宮本 正行(1973年卒業 河原ゼミ) 


 東京のゼネコン設計部在籍後、ドイツのブラウンシュヴァイクという町の設計事務所で働いた。閑静な一戸建住宅地の、袋小路の奥にある大きな邸宅で、車はそこでぐるりと回る。玄関を入り半階ほど上がると秘書のいる受付。そのフロアーは監理部門で、その上が設計部門。私の所属するコンペ担当の部屋の廊下を挟んだ向かい側には所長の部屋があった。


 当時2、3のビックプロジェクトの監理が進行中で、そのひとつは確か西ドイツ銀行の本社だったと思う。これらはコンペで勝ち取ったものである。戦後の建築ブームで80年代まで住宅団地や公共建築がほとんど設計競技で建てられた。ドイツの建築界は各州ごとに纏まっていて、その州に登録してないと参加できないものが多いが、大規模な国の施設などはどこにいても一定の資格を満たせばできた。


 コンペ担当は4名で同時に数個進行の時は各人に初めから、大きなものは分担して任された。考えが纏まってくるとスケッチやスタディ模型で意見交換するが、多くの場合所長の案が通り変更させられた。自分の方がと思うことも何回かあったが。決まれば皆で作図に取り掛かるのだが、人手不足の時は実施設計担当者も助っ人に来た。夜遅く所長の奢りで豪華な食事や徹夜もした。当時の建築事務所の労働環境は日本とも大差なかった。好きな仕事なので皆熱中した。所長の奥様も仕事中心の生活に不満だったような印象を持ったのだが。当時は今のようにCADはなく、手書きでドイツでは1畳位の大きな図面にロットリングでインキング。修正はカミソリの刃で削った。肉体労働!大変な時代だった。


 その後デュッセルドルフに行くことになった。所長は監理部門でもどうかと引き止めてくれたが。新しいオフィスではドイツだけでなく周辺のヨーロッパの国々に行くことが多くなった。スイス、スペイン、中でもイギリスは多かった。毎週打合せでデュッセルドルフ空港からロンドンに飛び、そこで地方便のターミナルから小型プロペラ機で中部バーミングハムまで行ったのだが、翼が機体の上部に付いていて窓からイギリスミッドランドの美しい景色を堪能できた。乗客数は30名位だった気がする。そこからタクシー「ブラックキャブ」で工事現場まで50キロを走った。宿泊することもあり英国的なベッド&ブレックファーストやレストランで食事もした。日本庭園の石を探してロンドンからスコットランドまでレンタカーを走らせたこともある。遠い若かりし頃の思い出である。


 

 

スケッチ手前の建物は歴史的建造物で保存し、周囲の住環境にいかに調和するかがテーマ。
私の案は地盤を掘り下げ、そこに展示スペースを置きガラス屋根で覆い威圧感を和らげた。
 
フランクフルト官庁センター
中央駅隣接地に計画された州の大規模複合施設 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
[プロフィール]    
みやもと まさゆき    
宮本 正行 1973年卒業 河原ゼミ

   
法政大学卒業後、ブラウンシュヴァイク工科大学修了。
清水建設設計部、PS&パートナー、竹中ヨーロッパ、リンドナー&パートナーなどに勤務。
元本学建築学科兼任講師。
現在、(有)宮本欧日建築研究室主宰。
翻訳本に『ドイツの都市造形史』(カール・グルーバー著,西村書店,1999)。