|
||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||
私は現在岡山市で、父が55年前に創業した不動産会社を2代目として経営しています。 都会のような派手な不動産業ではありませんが、賃貸は全国フランチャイズのアパマンショップを2店舗行い、仲介、売買、分譲、管理、コンサルタントとワンストップで対応できるようにしています。 毎年、岡山県の経済誌の年始号に今年の賃貸住宅の動向を執筆させていただいています。私は、今年の2月で60歳を迎えます。 振り返ってみると、様々な出会いがあり、支えていただいています。 大学4年生の時に2か月半、バックパックでヨーロッパへ建築視察の一人旅に出ました。この頃は、まだ建築家になりたかったのです。ローマで日本人の方に声をかけていただいたのですが、それがなんと南風舎の小川格さんとの初めての出会いでした。 2009年には、フィンランドに視察に行くことになり、調べているなかで、ヘルシンキ都市計画局で活躍されている吉崎恵子先輩(故)のことを知りました。日本から国際電話で、「法政大学の陣内ゼミOBです」と伝えたら、単に出身大学が同じというだけなのに数日後ヘルシンキで、親切にも都市の成り立ちや、手がけられた作品について説明くださいました。 卒業後は毎年、陣内ゼミのOB会に参加しました。その夜に合わせ全国のOBたちが東京に数十人集まります。年齢も仕事内容も違うのですが、とても刺激的な時間でした。ここで知り合った、なかだえりさんには、もう20年近く会社の暑中見舞いのイラストを描いてもらっています。 2009年、陣内先生には第1回目の瀬戸内国際芸術祭のプレイベントとして岡山で開催された国際シンポジウムのメインパネラーをお願いしました。同パネラーには、令和と命名された中西進先生もいらっしゃいました。 瀬戸芸は、岡山の福武財団(ベネッセ)の福武理事長(私の高校の先輩)が総合プロデューサーをされています。その時に一緒に講演されたアマルフィのガルガーノ夫妻を、同級生の西河哲也君と尾道や宮島を案内させていただきました。その縁で、陣内先生のアマルフィでの名誉市民の授賞式にも参列させていただきました。 先生とは、最近も瀬戸内や北陸をブラタモリのような旅をさせていただきました。陣内先生がフィールドワークにて、現地の人の懐に絶妙に入り込み、仲良くなり、会話を引き出している姿は、まさに不動産業においてとても大事な部分です。 不動産業は、人間力がとても大切です。私は建築の学術的なことは不勉強でしたが、この部分では先生から大きな影響をいただいていると思います。このように法政大学は、私の人生において様々なつながりをつくってくれました。 もう一人、私の人生に大きな影響を与えてくれた方に、京セラ創業者の稲盛和夫さんがおられます。2008年より稲盛さんが指導する盛和塾(2019年末に解散)に入れていただきました。盛和塾では経営のテクニカルというものよりは、「人間として何が正しいのか」また「利他」ということをベースにした生き方や考え方を教わりました。 この教えの中でできたプロジェクトが一つあります。この案件は大きな問題を抱え行き詰っていました。3年の交渉の後、約2100坪の某大手ビール会社の社宅跡地をやっと買えたのですが、その物件には数人の近隣住民との間でトラブルがありました。 そのため、大手ゼネコンが交渉に入っても埒があかずに数年間空家のまま放置されていたものでした。先方の要求は、社宅の解体で出てくる廃材を捨てるために、自分たちの前の道路を、公道であるにもかかわらず通るなというものでした。 実は、その物件は自分の母校の小学校の北隣にあり、小学校の横に廃墟のような社宅が何年も放置されていて、環境や治安にもよくないものでした。そのため、町内会長をはじめほとんどの人は、何かに用途変更されることを望まれていました。 私は、せっかく不動産の仕事をしていて、年齢的にも資金的にもそのような物件を取り扱える立場にいるのなら、環境のいい低層住宅の団地にしたいと思っていました。しかし、あまりにも強烈な反対の為、私自身相当悩んでいました。 たまたま、中国大連での盛和塾の例会で稲盛塾長と昼食時に偶然同じテーブルになり、勇気を絞り相談さしていただきました。 その言葉により、何も怖いものが無くなり、難しい交渉でしたが一気に開発を進めることができ、全27区画の団地はほとんど広告をすることなく売れていきました。 これからの残りの人生も、法政大学をはじめ、様々な縁に感謝し、世のため人のために役立てるような生き方、仕事をしていきたいと思います。
|
|
|||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||
[ essay
top ] |