去年の2月に30歳になりました。 近頃、傷の治りが遅くなったり、なかなか寝跡が消えなかったり、何かと身体の変化を感じることが増えました。
視力も落ちてクッキリと見えていた駅の電光掲示板の文字や、木々の葉がぼんやりとしたカタマリに見えたりもします。
先日事務所へ向かう道でふと「そういえば最近視力が悪くなったけれど、自分は何を<みて>この道を歩いていたかな」と気に掛かり、
今回のエッセイ執筆を機に<みる>について考えてみたいと思いました。
<みる>を辞書で引いてみると、同訓異義が結構沢山あります。 <見><観><診><看><覧>
どの<みる>も馴染みのある言葉ではないでしょうか。 私自身も現在に至るまでに様々な<みる>を経験してきました。
設計活動の経験としては、手のひらサイズの小さなモノからランドスケープというような大きなスケールのモノまでを設計してきました。
今までの私の経験してきた<みる>について少し綴らせて頂こうと思います。
<手でみる> 私は物心ついた時には絵を描くことが好きでした。そして、絵を沢山描くことが出来そうな建築学科に入学しました。
学生時代はCADに苦手意識もあり、課題では検討からプレゼンまでを全て手描きで取り組んでいました。
手で描くことで、普段は見逃してしまうような些細な物事をもう一度<観>察、注<視>し、どこが破綻しているかよく<診>て、インプットとアウトプットすることが出来ました。私にとっては手で描く事は沢山の意味で<みる>ことができるツールです。
当時は自身の考えを伝えたい部分に特に力を入れて、丁寧に詳細に図面やパースを描いていました。
しかしながら、分からない部分は全て後回しか気づかずにスルーしており、
そんな部分は意識的か無意識的にかは分かりませんが図面を白くぼやかしていました。
講評会でこれがバレると教授陣にお叱りを受けることもしばしばありました。
また、手でみる(スケッチ等描く)と、不思議と視覚的な記憶以外にもその土地の匂いや雰囲気、音など様々な情景が記憶を遡る事ができる気がしています。
2017年に大学院卒業後、ドイツ・オーストリア・スイス・フランス・スペインを旅した時にスケッチした場所の感覚を思い出すことが出来ますが、
写真に撮って歩いた場所の細やかな情景(匂い、雰囲気、音、、)はなかなか思い出せなかったりします。
<異なる縮尺をみる> アトリエへ就職し、CADを使うことで作業スピードは飛躍的に上がりました。
けれど手描きでは丁寧に描いた線、下書きの線、投げやりにかいた線、仮で描いた線、これらが一目瞭然なのに対し、
CADの線は線種等がいくら分けられても同じ線で、誰が描いても同じ線になる無機質さがあります。設計が積み重なっていった時に、
「なぜこの線を描いたのか思い出せない」旅先の写真にとった土地の匂いを思い出せない感覚と似ていると思っています。
これが結構危険でミスに繋がり兼ね無いので要注意しています。CADで線を描くスピードに自分の目が追いつけていないのでしょうか。
<みえないをみる> その後、以前から興味のあったランドスケープの仕事につきました。
建築も同様ですが実務では様々なスケールを横断して出来る限り見えないところをなくす必要があります。
特に規模の大きなランドスケープ設計になれば、mmからkmまでのスケールを横断しながらの計画になります。
この横断を繰り返すことで、スケールごとに考えるべき項目がいつの間にか等価な存在になるような感覚がありました。
また、ランドスケープ設計では4次元的で図面に表れてこない部分が非常に重要で、気候や自然、樹種の性質等、現時点でみえない事象も予見する必要があります。
設計図が完成形ではなく、その先を見越した計画をする点が建築設計とは大きく異なります。
<視点を変える> 色眼鏡をかけず幅広く物事を<みる>ことで建築設計に対する考えが広がったように思います。
また、違う分野へ寄り道をしたり、今までとは異なる角度から建築設計をもう一度<みる>と多くの気づきがあるように思います。
卒業後に訪れた場所にもう一度行き、 今の自分の<視力>ではどのようにみえるのか、確かめに行きたいと思います。
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