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独立して4年ほどが経った。
勤め人でなくなると、公私の区別はほとんどなくなり、仕事をすることは生きることそのものになる。
事務所の経営も綱渡りではあるが、それよりも、自分が日々何を選び、誰と関わって過ごすのか。 そのことでいつも頭はいっぱいだ。
技術発展や情報化により、モノやコトのスピードが上がるにつれて、人の時間感覚も変化している。
巷では、時間対効果を表すタイパ(タイムパフォーマンス)などという言葉も飛び交っている。
たしかに、中身(内容)が同じであればより短い時間で済ませたい、と思う気持ちはわからないではない。が、その「中身」は本当に同じなのか?といつも思ってしまう。
忙しい現代人の味方である「時短レシピ」の多くは、電子レンジを活用して茹でる工程や煮込み工程を省略することによって調理時間を短縮できる、というものが多い。
このことについて、たとえば野菜を「鍋で茹でる」のと「レンジでチン」することの違いを、「茹でる」のは細胞が熱によって分解される現象で、「レンジ」は分子振動による摩擦熱の利用という科学的な違いにより、見た目や食感、栄養素の違いなどを語ることもできるだろう。
ただ、私の違和感はそこではない。
加熱後の野菜の状態が本当に同じかどうかではなく、調理工程のなかで野菜の微細な変化を観察して、何かを感じ、気づきを得ようとすることが大切なのでは?と思うのだ。仮にそこで感じたことが間違いだったとしても。そのプロセスが自分のなかに与える影響、それこそが私の思う「中身」なのだ。
昨年、住戸リノベーションのプロジェクトで、部屋に合わせた一点物の家具を製作する機会があった。
良い家具屋さんとの出会いにも恵まれ、アグレッシブなクライアントとの3人4脚で、飾り棚と引き出し収納も兼ねた、可動式のソファベッドをつくった。
それは、まだ存在しない料理のレシピをつくるような作業から始まり、トライアンドエラーの連続からレシピを幾度も書き換え、じっくりコトコトと、常に鍋から目が離せない数カ月だった。
世の中には、便利で安い既製品や人工材料がたくさんある。それらを賢く利用することも大事だし、それを否定する気はない。しかし、このときの家具製作で得たものは、かけた時間以上のものだったと実感している。完成後にこのソファに腰かけて酌み交わした酒の味は忘れられない。
余談ではあるが、私は大学の卒業設計で、常に変化し続け、完成することのない「仮設建築」をつくった。その内容は「時間(プロセス)を設計した」とも言い換えられるものだった。
卒業して15年、このエッセイを書きながら、考えていることはあの頃と同じなのだなと思った。
明日からもまた、何を選んで誰と過ごすのか、その選択の連続だ。
生まれてから死ぬまでのせいぜい80年ほどの時間、私は、効率的に過ごして数や量を得るよりも、できるだけ記憶にこびりつく事柄が多いほうがいい。それを共有できる人が残るほうがいい。
時間と記憶は密接だと思う。 記憶に残る時間の使い方をしたい。
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部屋の奥行き方向に長く伸びる家具 |
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背もたれのようにカーブを描く棚 |
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家具と窓際 |
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ソファモードからベッドモードへ |
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