僕は現在新潟の介護施設に住んでいます。 新潟のような地方都市では障害者が住める場所はほぼ介護施設しかありません。
2020年以来、ここで暮らし続けています。
意外かもしれませんが、介護施設では人は死にません。
最初に前提として現在の介護施設に大きな不満はないことと、ここの介護施設は職員の質も高く、ニュースに出るような老人に虐待を振う職員はいないことを、をお断りしておきます。
以前、日本女子大学教授篠原聡子先生に[『終の住処』と言う概念を教えてもらったことがある。 グループホームや自宅をそう呼ぶこともある。
要は「これからここで死ぬと決めた安住の場所」の意味である。 そう言う意味では「介護施設」はあくまでも通過点であり、「終の住処」とは言えない。
しかし、ほとんどの人が介護施設に入居後はあとは死ぬだけと思い込んでいる節がある。
おそらく、これをお読みのほとんどの人が今後介護施設のお世話になるかもしれない。
そこで老人でも職員でもなく入居者として、介護施設の現実を記述しようと思う。
老人介護施設といっても全ての入居者が認知症や呆けているわけではない。 割合は低いが、頭脳も身体も問題もない人は存在する。
入居当時親しくしてもらった男性は元教員で、水彩画を嗜み含蓄のある楽しい会話も楽しめた。
一方多くの老人は、僕の目からは「認知症」としか思えなかったのも事実である。
アウェイの洗礼のようにまだ利用者がいる食堂の照明を胴間声とともに消す老人などに出会ったときはこれからの生活が思いやられる思いだった。
そして、朝から食堂で下半身を露出する男性に出会ったときは、「やはり、これが認知症」だという思いに哀しみさえ感じたものである。
一方敬老の日というものがある。ここに入居するまでは、老人は敬うものと思っていた。 しかし、現実は厳しく残酷である。
そして、入居後全ての老人が敬える対象ではないことがわかった。 職員を虐げる老人、職員を家族と勘違いし命令する老人。
老人であることを特権と勘違いしている老人など枚挙にいとまがない。
彼らのほとんどは団塊の世代〜戦後の人々であり、新潟では根強い家父長制にとらわれた世代である。戦後の復興を自分一人の努力と思い込んでいるのかもしれない。
知人の女性はよく「可愛いおばあちゃんになりたい」と呟く。 しかし実際のところはそんなおばあちゃんはほとんど出会ったことはない。
僕のこれまで出会った老人の中にはおそらく認知症と思われるが、いつもニコニコとして周囲の人々を和ませる人もいた。
そういう存在は「国の宝」として敬う存在だと思う。
つまり、介護施設に入居する人だけでなく、全ての人は謙虚で人間としての尊厳ある行動をしてほしい。
それが、終の住処の立ち寄り駅である介護施設のあるべき姿かもしれない。 それが死という人生の終着点に行くための切符になるのかもしれない。
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