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私にとって写真との出会いは、建築より遥か昔のこと。
小学校高学年の頃には、父から譲り受けた自分専用のハーフカメラを持っていた。
中学高校は写真部で、卒業アルバムには私の撮った写真もたくさん使われている。
写真は日常の記録であると思う。
写真家の作品というと、海外の珍しい風景や文化、入念な取材をした密着ドキュメンタリーなどを思い浮かべるかもしれない。でもそれはその写真家にとっては「日常の一コマ」なのであり、撮影されたテーマもまた日常の一部なのだと思う。
私は撮影に出かける時は、あえて「珍しいものをわざわざ探しに行く」と言う事をあまりしない。むしろ、当たり前の日常の風景の中に「珍しいもの」を見つける方が好きだ。いつもの駅までの道や見慣れた近所の街並みなどをブラブラしながら、何となく写真の事を考えながら歩いている。しかし、普通の日常の中に珍しいものがそう沢山あるわけでもなく、どちらかというと「いつもと違う変化」を探している。なるべく小さなカメラを持ち歩くことにしているが、持たない事もある。不運にも、カメラが無い時に素晴らしい風景に出会ってしまった時は、とりあえずスマホでイメージだけは押さえておき、後日、必要機材を持ってまた来たりする。しかし、大概はもう二度と撮れない事の方が多い。
いつも同じ道を歩いていると、人々の動き、路地裏のネコの気配、風や光の移ろい、、、そんな些細なものたちの僅かな変化が、同じルーティーンを繰り返す事で気づく事ができる。プロの写真家が同じ場所を何度も訪れるのは、きっと同じ理由であると思われる。彼らにとっての日常が、現地と同化するまで通い詰めるのである。
そしてときどき「神さまがイタズラ」をする。 そんなチャンスが2つ3つ同時に重なると、摩訶不思議でフォトジェニックな光景が生まれる。
それを逃さず捕まえシャッターを切るのが「写真」だと思う。
誰もが珍しいと思うものや、壮大な大自然の写真も、その道の専門家として評価は高いだろう。
一方で、誰もが当り前の日常の風景の中でも、そこにたまたま居合わせた自分にしか捉えられない瞬間というものがある。それを撮れた時の感動は何ものにも代えがたく、誰もが遭遇する可能性があり、また多くの共感を得られるだろう。私の写真には作風がいろいろあり、あまり決まったスタイルがない。その理由は、いつも「出会いの感覚」を大切にして、面白いと思ったらそれに突き進んでしまうからだと思う。そんな当ても無くさまよい続ける写真の旅は、今も続いている。
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父から譲りうけた最初のカメラ、Canon DIAL35 ハーフサイズだから、当時は35ミリの2倍の72枚撮れた。
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個展「Roji」2001年より、「石畳の路地」・谷中 谷中ではよく抜け道を発見するが、こんな石畳の路地が好きだった |
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個展「Parallelismo」2011年より、「カヴール大通り(南側)/バルレッタ」・南イタリア
撮影が夕刻だったため、日が暮れる様子が連続的に1枚に記録された |
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ゾーンシステム写真展2022年より、「Glass Forest」・銀座
ガラスのカーテンウォールに映ったビルの虚像が、森の樹々のようだった |
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個展「MonoliuM」2023年より、「カラスウリ」・自宅の庭 カメラの故障が原因で、偶然に二重写しになった不思議な作品 |
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