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1997年4月、建築家吉村順三が逝去された時のニュースをよく覚えています。
当時、まだ学生で世界の目新しい建築に興味を惹かれていた私は、建築家吉村順三の空間の素晴らしさを全く理解できていなかったように思います。
それから年月が経ち、30代後半に訪れた修禅寺の温泉旅館で、本棚にあった300ページ近い「吉村順三作品集」に出会い、その魅力に引き込まれました。そして数年後、縁があり知人の紹介で、1964年に吉村順三が設計した箱根の集合住宅の一室を引き継ぐことになりました。この部屋は、大規模リゾート開発の一環として大型ホテルと同時期に建設された築60年の集合住宅です。しかし、私が受け継ぐ時には経年劣化が進み、部屋だけでなくエントランス部分もバブル時代の名残で無造作にリノベーションされていました。壁紙や天井にはビニールクロスが貼られ、細部への配慮のない人工的な改築が施されていました。当時同時に製作されたであろう椅子やコーヒーテーブル、照明器具も丁寧に扱われていませんでした。そのような状況なので、この集合住宅は10年ほど前から区分所有者の意識変革を促しつつ、住民による管理組合が中心になって、竣工当時の状態に戻していくリノベーションを少しづつ行なっています。私も理事のひとりとしてこの集合住宅を維持していく活動をしています。
吉村順三は1908年(明治41年)生まれで、東京美術学校建築科(現・東京藝術大学)を卒業後、アントニン・レーモンドの事務所に入所しました。独立後は、小さな住宅から音楽堂、旅館、皇居新宮殿まで、規模や用途にかかわらず、住む人や使う人の居心地の良さを追求し続けました。高度経済成長期にもかかわらず、実直に建築を通じて住まう人々の生活を考え、その土地に根ざした生活を重視する姿勢を貫きました。吉村順三は、部屋を設計する際、自らがその場所に座って景色を眺め、心地よいと感じるかどうかを基準にして壁や天井を決めました。住居の設計基準として、必ず自分が住みたいと思えるかどうかを最も大切にしていました。
吉村順三の自邸「南台の家」(1957年)は、戦後間もない東京の焼け野原に建てられた、和室二間、風呂なしの小さな建売住宅でした。最初は夫婦二人から始まり、その後家族が成長するにつれて何度も増改築を繰り返し、十数年かけて心地よい住宅に変わっていきました。自邸を設計する際も、景色の見え方から決めた始点とその領域の重心に暖炉を配置しました。人々は自然と暖炉に引き寄せられ、そこに立つと外の景色が見渡せるという設計です。こうした自邸での実験的な取り組みが他の作品にも活かされています。吉村順三の建築思想や設計方法についての記述は少ないのですが、次のような一言にその心持ちが凝縮されています。
「建築家として、もっともうれしいときは、建築ができ、そこへ人が入って、そこでいい生活がおこなわれているのを見ることである。日暮れどき、一軒の家の前を通ったとき、家の中に明るい灯がついて、一家の楽しそうな生活が感ぜられるとしたら、それが建築家にとっては、もっともうれしいときなのではあるまいか。家をつくることによって、そこに新しい人生、新しい充実した生活がいとなまれるということ、商店ならば新しい繁栄が期待される、そういったものを、建築の上に芸術的に反映させるのが、私は設計の仕事だと思う。つまり計算では出てこない様な人間の生活とか、そこに住む人の心理というものを、寸法によってあらわすのが、設計というものであって、設計が単なる製図ではないというのは、このことである。」−『朝日ジャーナル』(1965年7月11日号)
私自身がこの小さな部屋に住んでみて感じたことは、一見普通に見えるこの部屋が、住んでから見えてくる寸法やディテールの意図を知れば知るほど、その思考の奥深さに驚かされることです。次第に自分の生活が整えられていくのを実感しました。吉村順三の作品には、建築家としてのエゴが全く感じられず、住まう人に対して純粋で、ディテールにこだわり、それらを積み重ねることで芸術的なものへと昇華させています。
「日本の気持ちから出たものをつくるべきでしょうね。つまり簡素でありながら美しいもの、というものを考えてですね。新しいことは、そのなかで考えて行くべきであって、・・・・自分たちの住んでいる日本の、長年にわたる風土と文化によって培われてきたさまざまな建築から学ぶことが必要なのではないでしょうか。」−『別冊新建築
日本現代建築家シリーズ7 吉村順三』(1983年)
「建築は、はじめに造形があるのではなく、はじめに人間の生活があり、心の豊かさを創り出すものでなければならない。そのために、設計は奇をてらわず、単純明快でなければならない。」−毎日新聞
(1989年1月4日夕刊)
この小さな部屋にいると、生活の大切さを教えられます。大きなことを考えるのではなく、まず身の回りにある風土と文化から自分の行動を考えることの重要性に気付かされます。さらに、無理なく丁寧に、自分が心地よいと感じる重心をしっかりと感じさせてくれるのです。
多くの日本人がより贅沢な豊かさを追い求めていた1964年の裏側で、一人の建築家は、日本が元来大切にしていた純粋な豊かさを、この小さな部屋に優しく温かく残してくれたのではないかと、その思いにふけることができます。1979年に出版された『吉村順三のディテール-住宅を矩計で考える』(吉村順三・宮脇壇著 彰国社)に残されたメッセージを通じて、吉村順三が見つめていたものをもっと知りたいという欲求が強まります。
「建築には資源も浪費しないで、できるだけ手間をかけないで、いい結果を得るという原則があると思います。それが、明治から西洋館が入ってきてね、いろんな飾りやなんかの外形的なものばかりを真似ることが建築デザインだと思う様になってきた。その後、日本の生活が豊かになってきてね、むしろ贅沢さみたいなものを楽しむようになっている傾向があるんじゃないか。しかし、日本の大きな歴史から言えば今は特殊時代ではないでしょうか。元来は、やっぱり昔からの、日本のもっている素直さというか、正直さというか、今いった合理性というのが、それが本当で、またいつかはそういう時代に戻ってくるんじゃないかという気がするんだよね。」−『吉村順三のディテール
- 住宅を矩計で考える』(1979年)
参考資料:『建築家 吉村順三のことば 100 建築は詩』(永橋爲成監修 2005年
彰国社)、『火と水と木の詩』(吉村順三著 2008年 新潮社)、 『匠たちの名旅館』(稲葉なおと著 2013年 集英社)
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吉村順三は1959年竣工の”箱根ホテル小涌園”を設計した後、1964年竣工の『フジタ第一・第二箱根山マンション』の設計も手がけた。その一室。 |
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